ちょうじん

張任

生没年? – 213年 所属後漢

二君に仕えずと言い放ち、劉璋に殉じた益州の忠勇

能力値
統率 C
武力 D
知力 D
計略 D
政治 E
人望 D
関連年表
生年不詳 益州蜀郡の寒門に生まれる
若年 胆勇と志節を認められ、州に仕えて從事となる
211年 劉璋が張魯に備え、劉備を益州へ招き入れる
212年 劉璋と劉備が決裂し、迎撃にあたる
212年 劉璝・冷苞・鄧賢らと涪で戦うも敗れ、綿竹へ退く
213年 劉璋の子・劉循とともに雒城に拠って守る
213年 雒城の攻防で、劉備軍の軍師・龐統が流れ矢に当たり戦死する
213年 雁橋に出撃して敗れ、捕らえられる
213年 降伏を拒んで処刑される。劉備はその死を嘆惜したという

略歴

張任は、益州蜀郡の人である。家は寒門で、名門の家柄も後ろ盾も持たなかったが、若くして胆力に富み、志節を守ることで知られ、その器を認められて州に仕え從事となった。やがて益州牧・劉璋の部将として重んじられる。 建安十六年(211年)、劉璋は漢中の張魯に備えるため、劉備を益州へ招き入れた。だが翌年、両者はついに決裂し、劉備は益州を狙って兵を挙げる。 張任は劉璝・冷苞・鄧賢らとともに涪で劉備軍を迎え撃ったが敗れ、綿竹へ退いた。その綿竹も落ちると、張任は劉璋の子・劉循とともに雒城に拠り、一年近くにわたって頑強に守り抜いた。 この雒城の攻防のさなか、城を攻めていた劉備軍の軍師・龐統が流れ矢に当たって落命する。年三十六。のちに物語がこれを落鳳坡の伏兵の功として張任に結びつけるが、正史が伝えるのは、あくまで雒城攻めのさなかの流れ矢である。 やがて張任は雁橋に兵を勒して打って出たが、またも敗れ、ついに捕らえられた。劉備はその勇と忠を惜しみ、降ってわが下に仕えよと再三勧めさせた。しかし張任は声を励まして言い放つ——「老臣、終に復た二主には事えず」。ついに節を曲げることなく斬られた。劉備はその死を深く嘆惜したという。

逸話

「老臣、終に復た二主には事えず」——捕らえられた張任が声を励まして言い放ったこの一言は、彼が自らを「老臣」と称したことから、長く益州に仕えてきた相当の年配の宿将であったことをうかがわせる。劉備は再三降伏を勧めさせたが、ついに翻意させられず、その死を嘆惜した。天下に名を知られた武功があったわけではない。それでもこの一言だけで、張任の名は千載に残った。 最後の出撃をして捕らえられた雁橋は、のちに金雁橋の名で知られるようになる。『三国志演義』では、諸葛亮が策を巡らせて張任を生け捕る舞台として描かれ、さらに劉備がその忠義を表するため、金雁橋のほとりに手厚く葬らせたとする。 家は寒門であった。名門の血筋も、引き立ててくれる後ろ盾もない。それでも胆勇と志節ひとつを恃みに州の從事に取り立てられ、最期は益州第一の忠臣として名を残した。乱世に主を選び直すことが咎められもしなかった時代に、選び直さなかったこと——それが張任という人の生涯であった。

評価

張任は、主家・劉璋に最後まで忠を尽くし、降を拒んで死んだ益州の忠勇の将である。名門の出でないながら節義を重んじたその生き方は、乱世に主を変えることを潔しとしない武人の典型として語られる。 劉備をして仕官を望ませ、なお節を曲げなかった最期は、益州の士の気骨を示すものとして後世に伝えられた。

演義

小説『三国志演義』では、劉璋配下きっての勇将として描かれる。とりわけ、落鳳坡に伏兵を置いて劉備の軍師・龐統を射殺する場面は、物語屈指の名場面のひとつである。 のち雒城で捕らえられ、劉備の再三の降伏勧告にも「忠臣は二君に仕えず」と応じて処刑される、忠烈の武人として印象深く綴られている。