ちょうこう

張郃

儁乂 壮侯 生没年? – 231年 所属

黄巾の乱から50年近く一線で戦い続けたとされる宿将

能力値
統率 C
武力 A
知力 E
計略 D
政治 F
人望 D
関連年表
184年 黄巾の乱
199年 易京の戦い
200年 官渡の戦い
207年 烏丸の乱平定
211年 潼関の戦い
215年 漢中平定
219年 定軍山の戦い
228年 街亭の戦い
231年 祁山の戦い

略歴

張郃、字を儁乂といい、河間郡の人である。子は張雄らがいる。 後漢、募集に応じて黄巾を討伐し、軍の司馬となり、韓馥に所属した。韓馥が敗北すると、兵をつれて袁紹に身を寄せた。袁紹は張郃を校尉とし、公孫瓚を防がせた。公孫瓚が敗れたのには、張郃の功績が大であったため、寧国中郎将に昇進させた。 曹操と袁紹が官渡で対峙しあったとき、袁紹は将軍の淳于瓊らに輜重を指揮させて烏巣に貯蓄させた。曹操は自身兵をひきつれ、急にそれを攻撃した。張郃は袁紹に進言して、淳于瓊が敗れることは事変するから、急ぎ救援すべきだといった。郭図は、張郃の計略は間違いで、敵の本陣を攻撃して撤退させるべきだと主張した。袁紹はただ軽装な騎兵を派遣して淳于瓊を救援させただけで、重装の兵によって曹操の陣営を攻撃したが、陥落できなかった。かくて曹操は淳于瓊を打ち破り、袁紹の軍は崩壊した。 郭図は面目なく思い、また張郃のことを讒言したので、張郃は危険を感じたので曹操に帰伏した。 曹操は張郃を得て、たいそう喜んで彼に向かって、伍子胥や微子、韓信らを例に挙げた。張郃を偏将軍に任命し、都亭侯にとりたてた。軍勢を与えられ、つき従ってギョウを攻撃し、これを落した。 またつき従って渤海にいる袁譚を攻撃し、別に軍をひきつれて雍奴を包囲し、さんざんにこれを打ち破った。つき従って柳城を征討し、張遼とともに軍の先鋒となり、功績によって平狄将軍に昇進した。 別に東莱に遠征し、管承を討伐した。また、張遼とともに陳蘭・梅成らを討伐し、それを打ち破った。 渭南において馬超・韓遂を打ち破り、安定を包囲し、楊秋を降伏させた。夏侯淵とともに賊徒梁興および武都のテイ族を討伐した。また馬超を打ち破り、宋建を平らげた。 曹操は張魯を征討したとき、まず張郃に諸軍を指揮させてテイ族の竇茂を討伐させた。曹操は散関から漢中に入るとき、また張郃に五千を指揮させて前方を行かせ道路を通じさせた。陽平まで行き、張魯は降伏した。 曹操は帰還するとき、張郃と夏侯淵らを留め置き漢中を守備させ、劉備に当らせた。張郃は別に諸軍を指揮し、巴東・巴西の二郡を降し、その住民を漢中に移住させた。 宕渠まで軍を進めたが、劉備の将軍張飛に抵抗され敗れ、南鄭に引き帰した。盪寇将軍に任命された。 劉備は陽平に駐屯し、張郃は親衛の兵をひきいて白兵戦を行い、劉備は勝つことができなかった。そののち劉備は走馬谷において守備陣を焼き払った。夏侯淵は火災の救援に向かい、別の道を通り劉備と遭遇し、戦闘となり白兵戦をくりひろげた。夏侯淵はかくて戦死し、張郃は陽平に引き返した。 この時に総指揮官を失ったところとて、劉備につけこまれることを心配して、夏侯淵の司馬郭淮はそこで軍兵に命令を下し、張郃を推挙した。かくて張郃をおしたてて軍の総大将とした。曹操は長安におり、使者をやって張郃に節を与えた。曹操はかくて自身漢中にやってきたが、劉備は高い山にたてこもってあえて戦おうとしなかった。曹操はそこで漢中からひきあげ、張郃は陳倉に帰って駐屯した。 曹丕が王位につくと、張郃を左将軍とし、都郷侯に爵位を進めた。帝位につくと、バク侯に昇進した。 詔勅によって張郃と曹真は安定の蛮族と羌族を討伐したが、そのあとともに召し寄せられて許の宮殿に参内し、南に向かって夏侯尚とともに江陵を攻撃せよとの命を受けた。張郃は別に諸軍を指揮して長江を渡り、中州にある砦を奪った。 曹叡が即位すると、南方に派遣されて荊州に駐屯し、司馬懿とともに孫権の別将劉阿らを攻撃し、祁口まで追撃して交戦し、これを破った。 諸葛亮が祁山に出陣した。張郃は特進の位を与えられ、諸軍を指揮して諸葛亮の将軍馬謖を街亭で防いだ。馬謖は南山をたよりとして抵抗し、下におりて砦にたてこもらなかった。張郃は彼らの水を汲む通路を絶ち切り、攻撃してさんざんにこれを打ち破った。南安・天水・安定の諸軍はそむいて諸葛亮に呼応したが、張郃はすべてそれらを打ち破り平定した。 司馬懿は荊州において水軍を整え、長江に入り呉を討伐したいと考えた。張郃は関中の諸軍を指揮して荊州に赴き、司馬懿のさしずを受けよとの詔勅が下った。張郃が荊州に到着すると、たまたま冬で水位が低く、大型船は運行できなかった。引き返して方城に駐屯した。 諸葛亮がまたも出陣して急に陳倉を攻撃した。曹叡は首都まで張郃を召し寄せ、対策を訊ねた。張郃は諸葛亮の軍は穀物がなく、長期にわたって攻撃することが不可能であり、十日で兵糧はもたないといった。かくて張郃が南鄭に到着すると、諸葛亮は引き上げた。張郃に首都帰還の詔勅が下り、征西車騎将軍に任命された。 諸葛亮がまたも祁山に出陣した。詔勅が下り張郃は諸将を指揮して西に向かい略陽に到着した。諸葛亮は引き返して祁山を守った。司馬懿は張郃に追撃をさせたが、張郃は、「兵法には包囲の城は必ず逃げ道を開けておく、帰りの軍は迫ってはならぬ、とあります」司馬懿は聞き入れなかった。 けっきょく張郃は後を追って木門まで来て、諸葛亮の軍と交戦した。飛んで来た矢が張郃の右膝に当たり、亡くなった。

評価

裴松之の注釈によると、官渡で袁紹軍が崩壊したことについて、「武帝紀」と「袁紹伝」を調べてみると、どちらも「袁紹は張郃・高覧に曹操の陣営を攻撃させた。張郃らは淳于瓊の敗れたのを聞き、けっきょく来降した。袁紹の軍勢はその結果完全に崩れ去った」といっている。それならば張郃らの降伏が原因で、そのあと袁紹の軍が崩壊したことになる。この張郃伝では、袁紹の軍が先に崩れ、郭図の讒言を心配してその後で曹操に帰伏したとしている。混乱して統一がないといえる、と述べている。 張郃は変化の方則をわきまえ、よく陣営を処置し、戦争の状況・地形を考慮し、計略どおりにいかないことはなかった。晩年、蜀と対峙しているとき、諸葛亮以下皆、張郃をおそれはばかった。

演義

小説『三国志演義』では、諸葛亮の策略で魏延が偽りの敗走をし続け、それを追撃した張郃が木門道という場所で伏兵の一斉射撃に合い射殺されるという描写に変更されている。 『Wikipedia』によると、吉川英治の「三国志」では作者のミスで、三回も戦死している(汝南で関羽に・長坂で趙雲に・木門道で孔明らに殺される)と記述されている。