どよ

杜預

元凱 成侯 生没年222年 – 285年 所属

破竹の勢いで呉を平らげた、文武兼備の名将

能力値
統率 C
武力 E
知力 B
計略 B
政治 C
人望 C
関連年表
222年 京兆郡杜陵県の名家に生まれる
260年代 律令の改定や富平津の架橋など実務で名を上げ、「杜武庫」と称される
278年 羊祜の推挙で鎮南大将軍・都督荊州となる
280年 呉征伐で荊州方面を進撃し、江陵を抜く
280年 「破竹の勢い」を説いて進撃を止めず、王濬と連携して呉を滅ぼす
280年 当陽県侯に封じられる
280年以降 『春秋左氏経伝集解』を著し、左伝研究に不朽の業績を残す
285年 没する

略歴

杜預、字を元凱といい、京兆郡杜陵県の人である。祖父・杜畿以来の名家に生まれ、経学・政治・法制・暦法・水利・機械にいたるまで通じた、当代屈指の博識家であった。何を問われても備えがあり、必要な物がそろっているさまを、武具をぎっしり蔵めた倉になぞらえて、人は杜預を「杜武庫」と称した。晋が建つと、律令の改定に加わり、黄河に富平津の橋を架け、また農政・水利の実務にも数々の実績を残した。 咸寧四年(278年)、荊州の羊祜が病没すると、その遺言による推挙を受けて、杜預は鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となり、征呉の総指揮の一翼を担うことになった。太康元年(280年)、晋は諸方面から一斉に呉へ攻め込む。杜預は荊州方面から軍を進め、まず要衝・江陵を抜いて、益州から長江を下る王濬の水軍と連携し、呉の諸城を次々に降した。 進撃のさなか、諸将のなかに、川の水がいよいよ増す夏が近いから、一度兵を退いて冬を待つべきだと唱える者があった。杜預は退けて言う——「今、わが軍の勢いは、たとえば竹を割くようなものだ。数節さえ割いてしまえば、あとは刃を迎えておのずと裂けていく」。そのまま進撃を止めず、一気に呉の都・建業へ迫って孫晧を降した。故事「破竹の勢い」は、この杜預の一言に由来する。かくて長い三国の争乱は、ついに終わりを告げた。 戦後、杜預は当陽県侯に封じられ、なお水利や運輸の政に力を尽くした。そして晩年は学問に沈潜し、『春秋左氏経伝集解』を著して、左伝研究に不朽の業績を残す。みずから「左伝癖(左伝への病みつき)がある」と称するほど左伝を愛したという。太康六年(285年)に没した。文と武の双方にこれほどの高みを兼ねた人物は、まれである。

逸話

「破竹の勢い」——今日なお用いられるこの成語は、杜預その人の言葉から生まれた。呉攻めの陣中、夏の増水を理由に退軍を説く声に対し、杜預は「今、兵の威はたとえば竹を破るがごとし。数節を破らば、みな刃を迎えて解く」と言い切り、進撃を止めなかった。一度勢いに乗れば、あとは抵抗も自然に崩れていく——その確信のとおり、呉はまたたく間に滅んだ。 いっぽうで杜預は、みずから「左伝癖(左氏伝への病みつき)」を持つと称するほどの学者でもあった。ある人が「武庫のごとし」と評された杜預に、「あなたにも癖(病みつき)がおありか」と問うと、杜預は「わたしには左伝癖がある」と答えたという。武人としては破竹の用兵で呉を平らげ、学者としては『春秋左氏経伝集解』を著して左伝研究の礎を築く——この一書は現存する最古の左伝の注釈として、経学史に不朽の名を刻んだ。 文武を一身に兼ねたその名は高く、後世、杜預は文の廟(孔子廟)と武の廟(武成王廟)の双方に祀られた数少ない人物の一人となった。乱世を締めくくった晋の人材の厚みを、杜預は一身に体現している。

評価

杜預は、軍略と学問の双方に卓越した、まさに文武兼備の名臣であった。呉平定における果断な用兵は「破竹の勢い」の語とともに後世に伝わり、その左伝研究は経学史に大きな足跡を残した。 一身にして武将と碩学を兼ねたその姿は、乱世を締めくくる晋の人材の厚みを象徴している。

演義

小説『三国志演義』では最終盤に登場し、羊祜の遺志を継いで呉征伐の主将の一人として活躍する。 王濬の水軍と呼応して破竹の勢いで呉を攻め落とし、長い三国の争乱に終止符を打つ立役者として描かれている。