ようこ

羊祜

叔子 成侯 生没年221年 – 278年 所属

徳をもって呉を望み、統一の礎を築いた晋の名将

能力値
統率 C
武力 D
知力 B
計略 C
政治 B
人望 B
関連年表
221年 泰山郡南城県の名門に生まれる
265年頃 晋の建国を輔け、腹心として重用される
269年 荊州方面の都督となり、呉に備える
270年代 屯田で軍糧を蓄え、恩信で呉の民心を得る
270年代 呉の名将・陸抗と国境を挟んで信義を交わす(羊陸の交わり)
270年代 征呉を繰り返し上奏するも、慎重論に阻まれる
278年 病没にあたり、後任に杜預を推し征呉の策を託す
278年以降 荊州の民が峴山に堕涙碑を建てて慕う

略歴

羊祜、字を叔子といい、泰山郡南城県の人である。羊氏は代々二千石の官を出した名門で、母は大学者・蔡邕の娘、姉は司馬師の妻(景献皇后)という、当代一流の家柄に生まれた。羊祜は若くして人品と識見をうたわれ、幾たびも仕官を辞退したのちに司馬氏に重んじられた。司馬炎が晋を建てるにあたっては腹心としてこれを輔け、やがて泰始五年(269年)、荊州方面の都督として、呉との長い国境の守りを託される。 任地に着いた羊祜は、力ずくの征服を急がず、まず人の心を得ることを根本に据えた。国境の守りを固めるいっぽうで屯田を大いに興し、着任当初は百日分に満たなかった軍糧を、数年で十年分にまで積み上げたという。そして境を接する呉の民や兵に対しても、恩と信をもって接した。呉の地で狩りをしても、呉側が先に傷つけた獣は必ず送り返させ、こちらの陣で穫れた作物を刈り取れば絹を置いて償わせた。敵地にすら誠を尽くすその姿に、呉の人々は羊祜を名を呼ばず「羊公」と敬った。 とりわけ、国境を挟んで対峙した呉の名将・陸抗との間柄は名高い。両者は互いに使者を通わせ、羊祜が酒を贈れば陸抗は疑わず飲み、陸抗が病めば羊祜は薬を送り、陸抗もためらわず服した。まさに「羊陸の交わり」であり、戦わずして相手を敬わせる羊祜の徳の、何よりの証であった。 いっぽうで羊祜は、呉を平らげる好機は今にありと見て、征呉の軍を起こすべきことを繰り返し朝廷に上奏した。だが賈充ら重臣の慎重論に阻まれ、議論はまとまらず、ついに存命中の出兵は実現しなかった。「天下、意の如くならざること、恒に十に七八を居む」——世の中は思うようにいかぬことのほうが多い、と羊祜は嘆いたと伝わる。 病篤くなると、羊祜は病をおして入朝し、なお征呉を説いたうえで、後任に杜預を推し、練り上げた策のすべてを託して世を去った。咸寧四年(278年)のことである。その二年後、遺策のままに呉は平定され、天下は統一された。羊祜の徳を慕う荊州の民は、彼がよく遊んだ峴山に碑を建て、これを仰いでは涙を流したので、世にこれを「堕涙碑」と呼んだ。

逸話

羊祜の徳を最もよく伝えるのが、荊州の民が建てた「堕涙碑」である。羊祜は生前、よく峴山に登って酒を酌み、詩を賦した。あるとき従者に向かって、「この山は天地とともに永くあるのに、古来ここに登った名士で、今その名の伝わる者はいくらもない。思えば悲しいことだ」としみじみ語ったという。その死後、彼の徳を慕う人々が峴山に碑と廟を建てると、これを仰いだ者は皆、在りし日の羊公を偲んで涙を流した。後年この地を治めた杜預は、その碑を「堕涙の碑」と名づけたと伝わる。 敵将・陸抗との交わりも、羊祜という人柄を映して余りある。羊祜が贈った酒を陸抗は毒を疑わず飲み干し、陸抗が病むと羊祜は薬を送り、周囲が止めるのも聞かず陸抗はこれを服した。陸抗は自軍の将にこう戒めたという——「彼が徳をもって来るのに、こちらが暴をもって応じては、戦わずして負けたも同然だ」。国境を挟んで刃を交えぬまま敬を交わし合った二人は、乱世の武人の理想像として、後世長く語り継がれた。 死に臨んで羊祜が推した後任が杜預であった。呉平定の栄光は杜預と王濬のものとなったが、その勝利の設計図を引いたのは、完成を見ずに逝った羊祜にほかならない。功を人に譲ってなお、その名は不朽となった。

評価

羊祜は、武よりも徳をもって敵を屈せしめようとした、稀有の名将である。敵将・陸抗との信義の交わり、荊州の民に慕われた徳望は、乱世にあってなお際立つ人格の光であった。 自らは統一の完成を見ずに没したが、その周到な布石と人選が、後の呉平定を確かなものにした。功を人に譲ってなお不朽の名を残した、まさに大人の風があった。

演義

小説『三国志演義』では終盤に登場し、荊州の国境で呉の陸抗と対峙する。武力で争うよりも徳と信義をもって相対し、互いに敬い合う「羊陸の交わり」の逸話が美しく描かれる。 呉征伐を志しながら病に倒れ、杜預にその志を託して世を去る姿が、統一へ向かう物語の転回点として綴られている。