ししゅう

脂習

元升 生没年生没年不詳 所属

旧友の孔融が処刑され、節義と誠実さを評価された人物

能力値
統率 F
武力 F
知力 C
計略 E
政治 D
人望 C
関連年表
220年 中散大夫となる

略歴

脂習、字を元升といい、司隷郡京兆の人である。 中平年間に都に仕え、三公の府に召されて太医令となった。献帝が董卓に強いられて長安に遷都した時も、曹操に奉じられて許に遷った時も、脂習はいつも随従した。 脂習は少府の孔融とも親交があった。曹操が司空になり、日に日に威望が高まって行く中で、孔融は自分と曹操はかつて同僚だったことから、ことさら昔のままの態度をとって、曹操宛ての書簡も傲慢な筆致だった。曹操が禁酒令を出すと、孔融は「点には酒旗の星があり、地には酒泉の郡が列し、人には美酒の徳がある。だから堯は千杯の酒を飲まなければ、聖徳を完成し得なかったろう。それに夏の桀王と殷の紂王は女色によって国を滅ぼしたのに、今、婚姻を禁じないのはどうしてか」と、わざわざ書を送ってからかった。 曹操が酒は古来、亡国の原因になったと言えば、孔融は「それは酒に限ったことではない」と答え、長長と典故を挙げて反揆し、「君は要するに米がほしいのだ」と痛い所を衝いた。 脂習はいつも孔融の態度を責めて改めさせようとしたが、彼は頑なになって従わなかった。 208年、孔融は堪りかねた曹操に殺された。孔融が殺されると、親交があった者も遺体を引き取って葬ろうとしなかった。 脂習は出向いて遺体をさすりながら、「文挙、きみは私を棄てて死んでしまった、私は誰と語らえばいいのだろうか」と嘆いた。曹操はこれを聞いて脂習を逮捕、裁判にかけようとしたが、その真っ直ぐな行ないに免じて赦し、許の東の土橋の下に住まわせた。 後に脂習は曹操に見えて陳謝した。曹操は彼の字を呼んで親しみを籠めて言った。「元升、きみは気概があるかなら」。そして住居を訊いて穀物百石を与えた。 黄初年間、曹丕は詔を下して起用したいと思ったが、年老いていると判断されて、そのままになった。しかし、旧友に対する誠実さは欒布の節義があるとして中散大夫の官位を与えた。退官後、家に帰って八十余歳で亡くなった。

評価

曹丕は脂習の孔融に対する姿勢は、欒布に劣らないと評した。欒布は前漢の人で、梁王彭越の使者として斉に赴いている間に、漢王劉邦は彭越を誅して洛陽に梟首した。欒布は帰って来てその首に報告し、礼哭を行なった。

演義

『三国志演義』には一切登場しない。