せつか

薛夏

宣聲 生没年生没年不詳 所属

曹三代に仕えて、儒宗の一人として博学多才だった人物

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 D
政治 D
人望 D
関連年表
204年 丞相軍謀掾となる
220年 秘書丞となる

略歴

薛夏は字を宣聲といい、天水郡の人である。子の名は不明である。 天水郡には、旧から姜・閻・任・趙の四姓が郡中で幅を利かせていた中で、薛夏は単家だったが、彼らに屈しなかった。四姓の者たちは薛夏を始末しようとしたため、故郷を逃れて都に向かった。 曹操は以前からその名声を聞いていたので、甚だ厚く礼遇した。四姓は後に囚人を使って薛夏をを遙か境界を越えて拘引し、潁川に連れていって投獄した。 そのころ曹操はすでに冀州にいたが、薛夏が本郡の連中に執えられていると聞くと「薛夏は無罪である。漢陽の小童たちが殺したがっているだけだ」と行って、潁川に通告して彼を釈放させ、丞相軍謀掾とした。 220年、曹丕もまたその才能を嘉し、秘書丞とした。曹丕は薛夏と経書とその解釈について議論する時、いつも終日に及んだ。 曹叡が後を継いだ太和年間、薛夏は公務の関係で蘭台に移ったことがあった。蘭台では、自分たちの官は台であるのに対して、秘書省は格下の部署に過ぎず、薛夏が異動を強行すれば罪に牴てると脅した。これに対して薛夏は「蘭台は外台、秘書は内閣で、政府と宮中の違いがあるだけで、職掌は似通っています。台と閣は一つのもので、どうして互いに異動・交流があってはならないのですか」と反論した。これに蘭台もうやり込められて屈服した。これ以後、ついに交流は恒例となった。 数年後、薛夏は病没した。享年不明。 曹叡は薛夏の子に勅を下して、棺を天水に持ち帰らないで都に埋葬するように命じた。終始、彼を排斥して殺そうとまでした郷里に埋葬するのを憐れんだ措置だった。

評価

薛夏は、賈洪と同じく『魏略』儒宗の一人である。博学多才だった。 曹丕は、薛夏を呼ぶ場合は名を避けて薛君と呼んで敬意を表した。極貧の薛夏が粗末な衣服を着ているのを見て、自分の上着を脱いで袍を脱いで与えたこともあった。 後に征東将軍曹休が参内した時、曹丕は薛夏を引き入れ、座が定まると「この君は秘書丞の天水郡の薛宣聲である。一緒に話し合うがよかろう」と紹介した。その待遇ぶりはこのようだった。