ばりゅう

馬隆

字孝興 生没年生没年不詳 所属晋

寡兵と奇策で涼州の大乱を平げた、晋の名将

能力値
統率 C
武力 D
知力 C
計略 C
政治 E
人望 D
関連年表
— 東平郡平陸県に生まれる。少くして智勇あり、功名を好む
— 兗州刺史・令狐愚の武猛従事となる
251年 令狐愚の謀が露見し、屍がさらされて収める者がない
251年 家財を出して葬り碑を立て、三年の喪に服して一州に称美される
270年代 禿髪樹機能の乱により秦州・涼州が失われ、朝廷が震え怖れる
277年頃 武帝の嘆きに朝臣が誰も答えぬなか、ただ一人進み出る
277年頃 出身を問わぬ募兵三千を条件として、平定を願い出る
278年頃 腰で四鈞の弓・足で九石の弩を試し、半日で三千五百人を得る
278年頃 朽ちた魏の武器を拒んで武器庫の令と争い、弾劾される
279年 八陣図に倣った偏箱車を連ね、戦いながら西へ進む
279年 道に磁石を積んで鉄鎧の敵を止め、神業と懼れられる
279年12月 樹機能を斬り、涼州の大乱を平定する

略歴

馬隆、字を孝興という。兗州東平郡平陸県の人である。『晋書』は「少くして智勇あり、功名を立てることを好んだ」と記す。 若いころ、兗州刺史の令狐愚に武猛従事として用いられた。のちこの令狐愚が謀逆と断じられて屍をさらされたとき、馬隆はこれを自分の財で葬り、三年の喪に服している。 晋の初め、涼州で鮮卑の禿髪樹機能が大規模な反乱を起こした。晋の州郡は次々に陥れられ、涼州刺史も戦死して、秦州・涼州は失われる。討伐に向かった将軍たちも相次いで敗れ、朝廷は震え怖れた。 西を顧みる憂いを抱いた武帝が朝に臨んで嘆いたとき、進み出て平定を願ったのが馬隆であった。ただし条件を付けた。出身を問わず、自分で勇士三千人を募らせてほしい——というものである。公卿はみな反対したが、武帝はこれを認めた。 西へ向かった馬隆は、諸葛亮の八陣図に倣って戦車を連ね、戦いながら前進した。ほかにも敵の装備の弱点を突く奇策を用い、創意をもって数の不利を補っている。 千里を転戦し、咸寧五年(279年)十二月、ついに樹機能を斬って涼州の大乱を平定した。寡兵をもって大敵を制した、鮮やかな武功であった。

逸話

馬隆の経歴でもっとも危険な行為は、戦場での働きではない。葬式である。 兗州刺史の令狐愚は、嘉平年間に王淩とともに曹彪を立てて司馬氏を掣肘しようと謀り、その計画が露見した人物であった。令狐愚自身は挙兵前に病没していたが、謀が明らかになると、司馬懿はその墓を発いて棺を剖き、王淩の屍とともに市にさらし、印綬と朝服を焼いた。 その屍を収める者は、誰もいなかった。収めれば謀反人に与する者と見なされるからである。 ここで馬隆は、自分の家財を出して令狐愚を葬った。碑を立て、礼を備えて埋葬し、そのうえ三年の喪に服した。喪を終えてから帰り、兗州の一州がこれを称美したと『晋書』は記す。かつての主の屍を、権力の只中で拾い上げたことになる。 その義と胆力が、二十数年後に国を救う形で現れた。 涼州が禿髪樹機能の乱で失われ、派遣された将軍が次々に敗れたとき、武帝は朝に臨んで嘆いた——「誰かわしのためにこの虜を討ち、涼州への道を通ずる者はないか」。『晋書』はこう書く。「朝臣、答うる莫し」。満座の臣が、誰も答えなかった。 そこへ進み出たのが馬隆であった。しかも、ただ受けるのではなく条件を出した。「陛下がもし臣にお任せくださるなら、臣に自分でやらせていただきたい」。すなわち、出身を問わずに勇士三千人を自分で募ることである。公卿はみな「現有の兵で足りる、新たに募兵など不要だ」と反対したが、武帝は馬隆の条件を認めた。 募兵の試験が厳しい。腰で四鈞の弓を引き、足で九石の弩を踏めること。標を立てて試したところ、朝から昼までで三千五百人が集まった。馬隆は「足りた」と言って打ち切っている。 そして出発前に、もう一つの戦いがあった。武器である。馬隆は武器庫で自ら武具を選びたいと願い出たが、武器庫の令がこれを拒んで争いになり、御史中丞が馬隆を弾劾した。馬隆の申し立てが残っている——「臣は戦場で命を落とす覚悟で、受けた恩に報いようとしております。ところが武器庫令がよこすのは、魏の時代の朽ちた武器です。使い物になりません。これでは臣は、賊の戦場で刃を振るうことができません」。武帝はこれを認めた。 戦い方も独創であった。諸葛亮の八陣図に倣って偏箱車を作り、広い地では車を並べて鹿角車営を組み、狭い路では車の上に木屋を掛けて矢を防ぎながら進んだ。そして道の両側に磁石を積み上げた。鉄の鎧を着た敵兵は前へ進めなくなり、犀皮の甲をまとった馬隆の兵だけが自在に動けた。『晋書』は、賊衆がこれを神業と懼れたと記す。 千里を転戦し、咸寧五年(279年)十二月、馬隆は樹機能を斬った。この乱については二年前に文鴦が涼州の諸軍を督して大破しており、二十万口の胡人が降っていたが、首領を討ち取って完全に平定したのは馬隆であった。 出発するとき、朝廷の議論はみな「成功するまい」というものであった。『晋書』はその予想をわざわざ書き留めてから、結果を記している。

評価

馬隆は、誰もが手を焼いた涼州の大乱を、わずかな手勢と、奇抜にして的確な兵略によって平定した、晋屈指の名将である。偏箱車や磁石を用いた戦法は、その創意の豊かさを示している。 数の不利を知略で覆したその一戦は、統一後の晋の武を支えた殊勲として記憶された。なお、かつて謀反人として屍をさらされた旧主を、みずからの財で葬り三年の喪に服した一事も、この人の胆力を物語っている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは扱われないが、晋の西方平定に功をあげた将として名が伝わる。 寡兵と奇策で樹機能の乱を平げた実像は、三国の後、なお辺境に続いた戦いを物語るものである。
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