ほうとく

龐悳

令明 壮侯 生没年? – 219年 所属

馬騰、馬超に仕えて反乱鎮圧に貢献し、曹操に仕えて忠節を全うする

能力値
統率 C
武力 A
知力 C
計略 D
政治 E
人望 B
関連年表
202年 郭援・高幹の乱を平定
211年 潼関の戦い
216年 曹操に降伏する
219年 樊城の戦い

略歴

龐悳、字を令明といい、南安郡狟道県の人である。従兄はホウ柔、子はホウ会、他三人がいる。 若くして郡吏・州の従事となった。初平年間、馬騰につき従って反乱を起こした羌族・氐族を攻撃し、たびたび戦功を立て、次第に昇進して校尉に昇った。 建安年間、曹操は袁譚・袁尚を黎陽に討伐した。袁譚は郭援・高幹らを派遣して河東を攻略させた。曹操は鍾ヨウに関中の諸将をひきいて彼らを討伐することを命じた。龐悳は馬騰の子の馬超につき従って、平陽において郭援・高幹を防いだ。龐悳は軍の先鋒として進軍し郭援・高幹を攻撃、さんざんに彼らをうち破り、みずから郭援の首を斬った。中郎将に任命され、都亭侯にとりたてられた。 魏略によると、龐悳はてずから一つの首級をあげたが、それが郭援だとは知らなかった。戦闘が終わったあと、人々は皆、郭援が死んでいるのにその首が手に入らないといった。郭援は鍾ヨウの甥であった。龐悳が遅れて一つの首を取り出した。鍾ヨウはそれを見て声をあげて泣いた。龐悳が鍾ヨウにあやまると、鍾ヨウは、「郭援はわしの甥であるが、国賊である。御身はどうしてそれを謝るのだ」といった。 のちに黄巾の一党の張白騎が弘農で反乱を起こすと、龐悳はまたも馬騰につき従って彼を討伐し、東西の山間で張白騎をうち破った。戦闘のたびにつねに陣を陥れ敵を撃退し、武勇は馬騰の軍で第一だった。 のちに馬騰が朝廷に召されて衛尉となると、龐悳は留まって馬超の配下となった。 曹操が渭南において馬超をうち破ると、龐悳は馬超につき従って漢陽に逃げ込み、冀城に立て籠った。のちにまた馬超につき従って漢中に逃げ、張魯に従属した。 曹操が漢中を平定すると、龐悳は軍勢とともに降伏した。曹操は平素より彼の武勇を聞いていたので、立義将軍に任命し、関門亭侯にとりたてた。 侯音・衛開らが宛によって反乱をおこした。龐悳は配下の兵をひきいて曹仁とともに宛を攻撃して陥落させ、侯音・衛開を斬り、そのまま南下して樊に駐屯し、関羽を討伐した。樊にいた諸将は龐悳の兄が漢中にいることから、大いに彼に疑惑を抱いた。龐悳はつねにいって、関羽を殺すか、自分が関羽に殺されるかの決意だと示した。 のちに自身で関羽と戦闘を交えたとき、関羽を射て額に命中させた。当時龐悳はつねに白馬に乗っていたので、関羽の軍では彼のことを白馬将軍と称し、皆おそれをなした。 曹仁は龐悳に命じて樊の北方十里に屯営させた。ちょうど十余日にわたって長雨が降りつづき、漢水は急に氾濫した。樊の領下の平地は五、六丈も水がたまり、龐悳は諸将と水を避けて堤に登った。関羽は船に乗ってそれを攻撃し、大船をもって四方から堤の上を射た。龐悳は鎧を着て、弓を持って射たが、矢は無駄に発せられることはなかった。将軍の董衡、部隊長の董超らが降伏しようとすると、龐悳は彼らを全員とらえて斬り捨てた。夜明けから力戦して日が傾くまでになった。 関羽はいよいよ攻撃を激しく、矢が尽きて、刀や剣で白兵戦を行なった。龐悳は督将の成何に向かって、「良将は死を恐れず、烈士は節義を失ってまで生を求めない。今日はわしが死ぬ日じゃ」といった。 戦うほどにますますたけりたち、意気はいよいよ盛んであったが、水の勢いがましてくると、軍吏や兵士は皆、降伏した。龐悳は配下の将一人、五伯(班長)二人、弓をひきしぼり矢をつがえ、小船に乗って曹仁の陣営に帰ろうとしたが、水勢が盛んで船はくつがえり、弓と矢を失った。ただ一人船底を抱いて水中にいるところを、関羽に捕えられたが、つったったままでひざまずかなかった。 関羽は彼に向かって、「御身の兄は漢中におる。わしは御身を将とするつもりだが、さっさと降伏しないのはどういうわけじゃ」すると龐悳は関羽を罵って、「わっぱめ、どうして降伏などというのだ。魏王は百万のよろい武者を持ち、威光は天下に轟いている。おまえの劉備なんぞ凡才にすぎぬぞ。どうして敵対できる。わしは国家の鬼となっても、賊の将とはならぬわ」といった。かくて龐悳は関羽に処刑された。

評価

龐悳が関羽に敗れて死ぬと、曹操はそれを聞いて悲しみ、彼のために涙を流し、その二人の子を列侯にとりたてた。曹丕は王位につくと、使者を龐悳の墓に赴かせ、諡を賜った。 龐悳の名は、演義では徳という名で表記されている。

演義

小説『三国志演義』において、馬超と共に活躍したが、馬超が劉備との戦いの際に病気により同行できず馬超が劉備に下った後も張魯の元にいた。 曹操が漢中平定を目論み攻め込んできた際に張魯の軍勢として出陣し、夏侯淵、許褚と一進一退の攻防を行った。それを見た曹操が殺すのは惜しいとして、張魯の部下の楊松を買収して張魯と仲違いさせ、やむなく曹操の元へ下った。 関羽征討戦では次のように描かれている。まずホウ徳は自らが裏切るかもしれないという疑念を晴らすため、戦に赴く前に自らの棺を用意し、自らの命に代えてでも関羽を討つという意思を示し、曹操もそれを聞いて絶賛した。 新参ということで将軍が于禁、副将がホウ徳となったが、両者は折り合いが悪かった。初めホウ徳は戦局を優位に進めていたが、于禁は功を焦ったのか撤退命令を出した。魏の援軍はこの虚を突かれ水攻めを喰らって大敗し、于禁、ホウ徳ともに生け捕られる。この時、ホウ徳を水の中で捕らえたのは周倉となっている。 その後は史実同様、ホウ徳は忠義を貫き通し関羽自らの手によって処刑され、于禁は命乞いをし、後に呉により本国に送り返されることとなる。