ほうとう

龐統

士元 靖侯 生没年178年 – 213年 所属

鳳雛と称されて諸葛亮と並びし軍師

能力値
統率 D
武力 F
知力 A
計略 A
政治 C
人望 C
関連年表
199年 司馬徽と会って名士となる
210年 軍師中郎将となる
213年 劉備に従い入蜀する

略歴

龐統、字を士元といい、襄陽郡の人である。弟にホウ林、子はホウ宏、従父にホウ徳公がいる。 若いころ地味でもっさりしていたので、まだ評価する者がなかった。龐統は二十歳のとき、頴川の司馬徽に会いに行ったところ、司馬徽は桑の木に登って葉をつんでおり、龐統を木の下に座らせて、語り合うこと、昼から夜にまで及んだ。司馬徽は彼をたいへん高く評価して、龐統は南州の士人中第一人者になるだろうとたたえた。それから次第に有名になった。 のちに、郡が任命して功曹とした。生来、人物評価が好きで、人を育てることに努力した。 呉の将軍周瑜は劉備の荊州奪取を援助し、そのまま南郡の太守の役に当たった。周瑜が逝去すると、龐統は遺骸を送って呉に行った。呉の人々には彼の名声を聞き知っている者が多かった。西に帰ろうとするときになって、見送りのため、陸績、顧邵、全琮らが昌門に集まった。みなそれぞれ龐統と深く心を許し合い、龐統は帰って行った。 劉備は荊州の治政を握ると、龐統に従事のまま耒陽(らいよう)の令を代行させた。県在任中、治積あがらず、免官になった。呉の将軍魯粛は劉備に手紙を送り、龐統の才能は治中や別駕の任務(州郡の長官の顧問)につかせて駿足すると推薦した。諸葛亮もまた彼を劉備にとりなした。劉備は目通りさせ、彼と充分に語り合ったのち、彼を大いに有能だと評価し、治中従事に任命し、その親愛ぶりは諸葛亮に次ぐものがあった。かくて諸葛亮とならんで軍師中郎将となった。 諸葛亮が遠征に加わらず荊州のおさえとして留まったとき、龐統は付き従って蜀に入った。 益州牧の劉璋は劉備と会見することになったが、龐統は劉璋を捕らえる計略を進言したが、劉備は恩愛や信義がまだあらわれていないことを理由に拒んだ。 劉璋が成都に帰還したあと、劉備は劉璋のために北方漢中の征伐に向かうはずだったが、龐統はふたたび進言して、昼夜兼行で成都を襲撃するように言った。劉備は酔っていたので、龐統と口論となり、すぐに出て行けと言った。龐統は後退りして出て行った。劉備はすぐに後悔して戻ってくるように頼んだ。龐統はもとの席に戻ったが、まったく知らぬ顔で陳謝せず、平然と飲み食いをつづけた。劉備が彼に向かって、先程の議論は誰が間違っているかきくと、龐統は「君臣ともにまちがっておりました」と答えた。劉備は大笑いして、初めと同じように酒宴を楽しんだ。 その後、進軍して、劉循、張任らが守る雒(らく)県を包囲した。龐統は軍勢を率いて城を攻撃したが、流れ矢にあたって戦死した。享年36歳。 劉備は彼をはなはだ哀惜し、彼の話をするたびに涙を流した。

評価

龐統は物事の本質を見極めて、臨機応変で現実的な手段を講じることに長けており、人物評価、謀略に異能を発揮した。夭逝したためにそれ程事跡が多くはないものの、残された逸話からは龐統の知性と人格が窺える。 また龐統は人物評価を好んでおこなったが、その場合はいつもその人物を過大に評価をしていた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎくらいの評価をして名誉欲を満たしてやらなければ、善事をおこなう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。 『三国志』において龐統の伝は法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣にあてはめると荀彧の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。

演義

小説『三国志演義』においては龐統の兄弟が諸葛亮の妹を娶り、義兄弟となる。赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操を破るための献策を行なう。周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないと言うことが問題であった。そこで龐統は連環の計と呼ばれる策を周瑜に勧めた。龐統自身が周瑜の陣営にスパイにやって来た蒋幹をうまく欺いて曹操の軍営に潜り込み、曹操と面会して北方人の弱点である船酔い対策として船同士を鎖で繋げることを進言したのである。このことにより火がついても曹操軍の軍船は逃げられないようになり、劉備・孫権の連合軍による火責めで曹操軍は大破されたということになっている。また、曹操の臣下となっていた親友の徐庶が火計に巻き込まれないように、別方面へ派遣されるようにし向ける策を授けている。 その後、周瑜の葬儀に参列した諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われる。彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と歯に衣着せぬ言動から疎まれてしまう。次に龐統は劉備に面会するが、劉備はその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、閑職の地方県令をあてがった。すると龐統は一ヶ月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられるが、劉備から派遣された張飛が詰問したところ、溜まっていた一ヶ月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。これによって龐統はその才能を劉備に認められ、さらに劉備は自身の行為を戒めることになった。 またその死については、劉備の代わりに危険な間道を進んだため、気遣った劉備が貸し与えた白馬(的盧であった可能性があるが、演義中では明言されてない)に乗っていたため落鳳坡という場所で劉備と間違えられて張任配下の伏兵に射殺された、という描写になっている。 ちなみに落鳳坡という地名は実在するが(現在の四川省徳陽市)、龐統の死後に名付けられたと思われる。落鳳坡の石碑付近に龐統墓がある。