かこうげん

夏侯玄

字太初 生没年209年 – 254年 所属魏

清談を領した名士、司馬氏に抗して従容と死した

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 E
政治 D
人望 C
関連年表
209年 夏侯尚の子として生まれる。母は曹真の妹で、曹爽は従弟
— 弱冠で散騎黄門侍郎となり、何晏らと並んで玄学を領導する
明帝期 皇后の弟・毛曾と同席させられ、不快を顔色に出して羽林監へ左遷
正始年間 散騎常侍・中護軍として武官を抜擢し、多くが州牧・郡太守に昇る
正始年間 司馬懿に評定と任用の分離・州県二層制・礼制の簡素化を論じる
244年 征西将軍として曹爽と蜀へ侵攻(興勢の役)し、敗れて譏られる
244年 司馬懿の警告を受け、曹爽に説いて軍を退かせる
249年 高平陵の変で兵権を奪われ、大鴻臚・太常として都に留められる
254年 李豊・張緝が司馬師を除いて輔政に立てようと謀り、露見する
254年 鍾毓の取り調べに屈せず、鍾会の接近を拒む
254年 東市で顔色を変えずに処刑される(四十六歳)。三族を誅される

略歴

夏侯玄、字を太初といい、魏の名将・夏侯尚の子である。建安十四年(209年)の生まれ。母は曹真の妹であり、したがって曹爽は従弟にあたる。 若くして名を知られ、弱冠で散騎黄門侍郎となった。端麗な風姿と深い学識をそなえ、何晏・王弼らと並んで玄学——老荘に基づく形而上の論議——を領導する当代随一の名士とうたわれた。その佇まいは「朗朗として日月の懐に入るがごとし」と評されている。 正始年間、従弟の曹爽が政権を握ると、散騎常侍・中護軍に進んだ。中護軍として武官の人事を担い、参戟・牙門に抜擢した者はみな俊傑で、多くが後に州牧や郡太守に昇ったという。 このころ夏侯玄は、太尉であった司馬懿に問われて、国制についての具体的な改革案を論じている。第一に、人材評定を行う中正は郷里の評判を調べるにとどめ、官職の任用は中央官府が担うべきこと——評定と任用の権限を分離せよという主張である。第二に、州・郡・県の三層を州と県の二層に整理し、官吏を減らして民の負担を軽くすること。第三に、服飾や礼制の奢侈を抑えることであった。司馬懿は「官を審らかにし人を択び、重複する官を除き、服制を改めるのは、みな大変に善い」と評価したが、礼俗を変えるのは賢者の世を待つべきで今日行えることではない、として実施には慎重な姿勢を示した。 正始五年(244年)、征西将軍・都督雍涼諸軍事として、曹爽とともに蜀へ侵攻した(興勢の役)。だがこの出兵は失敗し、当時の人々から譏られることになる。退却の判断を促したのは司馬懿であった。「進んで戦えず、退いて断たれれば、軍を覆すのは必定である。君は何をもってその責めを負うのか」という書を受け、夏侯玄は恐れて曹爽に説き、軍を退かせている。 正始十年(249年)、高平陵の変で曹爽が滅ぶと、夏侯玄は兵権を奪われて召還され、大鴻臚、のち太常として都に留め置かれた。意を得ぬ日々であった。 嘉平六年(254年)、中書令の李豊が光禄大夫の張緝らと謀り、専横する司馬師を除いて夏侯玄を輔政の任に立てようとした。だが計画は露見して李豊は殺され、夏侯玄・張緝らも獄に下される。審理にあたったのは廷尉の鍾毓であった。 処刑されたとき、四十六歳。三族が誅された。刑場においても顔色を変えず、挙止は自若としていたと伝わる。

逸話

「蒹葭、玉樹に倚る」という成語は、この人の不機嫌から生まれた。 明帝の代、参内した夏侯玄は、皇后の弟である毛曾と並んで座らされた。外戚として引き上げられただけの人物と同席させられたことを恥とし、夏侯玄は不快を隠さず顔色に出した。明帝はこれを恨んで、夏侯玄を羽林監に左遷する。当時の人はその光景をこう評したという——「蒹葭(葦)が玉樹に倚りかかっている」。つまらぬ者が高貴な者の傍らに並ぶことを指す言葉として、以後も使われ続けた。 その風姿は『世説新語』にも記されている。「夏侯太初は朗朗として日月の懐に入るがごとし」。そして同じ条で、のちに彼を担ごうとして殺される李豊は「頹唐として玉山のまさに崩れんとするがごとし」と評されていた。二人の評語が並んでいることを知って読み返すと、この時代の名士たちの運命がひとつの文に凝縮されて見える。 だが、夏侯玄を清談だけの人と見るのは正しくない。司馬懿に問われて述べた三つの改革案は、いずれも具体的で急所を突いている。人材を評定する中正と、官職を授ける中央官府の権限を分けよ——これは九品官人法の最大の弊害、すなわち評定官が人事権まで握ることへの正面からの批判であった。州・郡・県の三層を二層に整理せよという案も、後世の行政改革の方向をそのまま先取りしている。司馬懿は「みな大変に善い」と認めながら、実行は賢者の世を待つべきだと答えた。評価しつつ動かさない、という返事であった。 最期の経緯には、取り調べる側の畏敬が記録されている。 夏侯玄は廷尉に送られても自白を拒んだ。廷尉の鍾毓がみずから取り調べにあたると、夏侯玄は正色して責めた——「わたしに人を誣いて自分を全うさせようというのか。卿は廷尉でありながら、情をもって恕すことをせず、かえって刑をもって迫るのは、どういうことか」。鍾毓は、この名士が節高くして屈しないと見た。そして裁きを終えねばならぬ立場から、夜のうちに自白書を代作したのである。書面を見せられた夏侯玄は涙を流して言った。「わたしに何の罪があろうか」。 もう一人の鍾氏も、この場に現れる。『世説新語』によれば、拘束された夏侯玄に対し、鍾毓の弟・鍾会が馴れ馴れしく近づいた。鍾会はかつて交わりを求めて相手にされなかった恨みを抱いていたのである。夏侯玄はこう答えた——「たとえ刑余の身になろうとも、お言葉を承るわけにはまいりません」。そして拷問を受けても一言も発せず、東市に引き出されても顔色を変えなかった。 同じ年に生まれた一族の、対照的な選択も記しておきたい。高平陵の変の直後、同族の夏侯覇は司馬氏を恐れて蜀へ亡命した。夏侯玄は洛陽に留まり、五年後に処刑された。逃げた者は父の仇の国で車騎将軍となって生き、留まった者は東市で死んだのである。

評価

夏侯玄は、玄学を領導した当代第一級の名士であり、その清らかな風姿と学識は、魏晋の知識人の理想像とされた。同時に、評定と任用の分離や州県二層制といった具体的な官制改革を構想した政治家でもあった。政治の場では司馬氏の台頭に抗しきれず、非命に斃れたが、刑に臨んでなお乱れなかったその態度は、乱世における士の矜持を、鮮やかに示している。 才と徳を兼ねながら、時勢に敗れて散ったその生涯は、司馬氏の簒奪の非情さを、いっそう際立たせている。

演義

小説『三国志演義』では、司馬氏に抗して謀られる魏の名士として登場する。李豊・張緝らと司馬師の排除を図るが、事は露見し、処刑される。 その死は、司馬氏が魏の実権を固めていく過程で失われていく、名士たちの悲運の一つとして描かれている。
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