ちょうき

張既

字徳容 生没年? – 223年 所属魏

関中・涼州を安んじた、魏の辺境経営の名臣

能力値
統率 C
武力 E
知力 C
計略 C
政治 C
人望 C
関連年表
— 馮翊郡高陵県に生まれ、郡の門下小吏から出発する
— 筆・刀・木札を蓄え、切らした役人に配って功曹の好意を得る
— 新豊県令となり、その治績は三輔第一と称される
215年 氐人の北遷を献策し、五万余落を扶風・天水の境へ移す
— 京兆尹・雍州刺史として、馬超・韓遂の乱に荒れた関中を再建する
220年 涼州刺史となり、酒泉の黄華・張掖の張進らの叛乱を平らげる
— 西平の麹光の乱に際し、諸将の討伐論を退けて檄を諸羌に告諭する
— 「誑かされた者は赦す、賊帥の首を送る者には封賞」と布告する
— 麹光の部下が自ら首を斬って送り、戦わずして乱が終わる
223年 没する。粛侯と諡され、「魏代の名守」の一人に挙げられる
254年 子の張緝が司馬師を除く謀に加わって露見し、誅される

略歴

張既、字を徳容といい、馮翊郡高陵県の人である。郡の小吏から身を起こした。 若くして書疏(文書)を巧みに書き、新豊県令に任じられると、その治績は三輔——長安を囲む三郡のなかで第一と称された。 建安二十年(215年)、曹操が張魯を討とうとしたとき、張既は氐人を北へ移す策を献じた。先に出てきた者を厚く賞せば、後の者も利を知って従う——という献策である。曹操はこれを採り、張既を武都へ遣わして、氐の五万余落を扶風・天水の境へ移住させた。 京兆尹・雍州刺史として、馬超・韓遂の乱に荒れた関中の再建にもあたった。荒廃した土地へ民を呼び戻し、生業を立て直させている。 延康元年(220年)に涼州刺史となると、河西に相次いだ反乱の鎮定が主な任務となった。酒泉の黄華、張掖の張進らが太守を捕らえて叛いたときも、これを平らげている。 その手腕は、武力で押さえつけるだけのものではなかった。羌や胡といった異民族には恩と威を使い分けて臨み、反乱に際しては軍を動かす前に相手の内部を割ることを考えた。民政を重んじ、人心を安んじることに長けた人であった。 この周到で着実な辺境経営によって、魏の西の守りは大いに固められた。黄初四年(223年)に世を去り、粛侯と諡された。

逸話

張既が寒門から世に出るために使った手が、裴注の『魏略』に書き残されている。 郡の門下小吏であったころ、張既は自分の門地が低く、世に出る手だてがないことを自覚していた。そこで常に、良い筆と刀——書き損じを削る小刀——と、木札の版を蓄えておいた。そして役所の官吏たちを見回して、それらを切らしている者を見つけると、すぐに分けてやったのである。この積み重ねによって、人事を握る功曹たちの好意を厚く得たという。 文房具を配ることから官歴を始めたことになる。もっとも『三国志』の本文は「少小、家貧」——若いころ家は貧しかったと記し、『魏略』は「家富」としていて、そこは食い違っている。 辺境経営の手並みをもっとも鮮やかに示すのは、西平の麹光の乱である。 麹光らが郡守を殺したとき、諸将はただちに討伐しようとした。これを止めたのが張既であった。その理屈がこうである——逆を起こしたのは麹光らだけで、郡の人すべてが同心とは限らない。ここで軍を差し向ければ、吏民も羌も胡も「国家は是非を区別しない」と受け取り、かえって全員が手を結んでしまう。それは虎に翼を添えるようなものだ。麹光らは羌・胡を援けにしようとしているのだから、先にその羌・胡に襲わせ、賞を重くして獲たものはすべて与えればよい。外から勢いを削ぎ、内から交わりを断てば、戦わずして定まる——。 そこで張既は、軍ではなく檄を出した。諸羌へ向けて、麹光らに誑かされただけの者は赦す、賊帥の首を斬って送る者には封賞を加えると告諭したのである。 結果は、張既の読みどおりであった。麹光の部下たちが自ら麹光の首を斬って送り届け、残りの者はみな元どおり安堵した。一兵も損なわずに乱は終わった。 同じ発想は、氐人の移住にも表れている。曹操が張魯を討つにあたり、張既は氐人を北へ移すよう献じたが、その方法は強制ではなかった。先に出てきた者を厚く賞せば、それを見た後の者が利を知って自ら従う——という手順である。この策によって、数万の落が自ら北へ動いた。 人を動かすときに、力ではなく利害の筋道を示す。張既の辺境経営は、一貫してこの型であった。陳寿は張既を、劉馥・司馬朗・梁習・温恢・賈逵と並べて「魏代の名守」と評した。そのなかで、この人がとりわけ涼州という難所を任され続けた理由も、そこにあろう。 なお、その子の張緝は、父とはまったく違う道をたどった。嘉平六年(254年)、中書令の李豊らと謀って専横する司馬師を除こうとし、計画が露見して誅されている。西の辺境を三十年近く安んじた父の家は、中央の政争によって絶たれたことになる。

評価

張既は、動乱の絶えぬ関中・涼州の地を、軍略と民政の双方を駆使して安定させた、辺境経営の第一人者である。派手な会戦の武勲ではなく、荒れた辺地を鎮め、民を安んじ、異民族を撫でるという地道な功にこそ、その真価があった。 その働きによって固められた西方の守りは、魏の背後を安んじ、対蜀・対呉の戦いを支える礎となった。人を動かすときに力ではなく利害の筋道を示す——その型は、氐人の移住から西平の乱の処理まで一貫している。

演義

小説『三国志演義』では大きくは扱われないが、魏の西方を治める臣として名が挙がる。 関中・涼州を安んじた実像は、広大な魏の版図を、辺境から支えた実務家たちの働きを物語っている。
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