えんたん

袁譚

顕思 生没年? – 205年 所属後漢

弟と後継を争い河北を失った、袁紹の長子

能力値
統率 D
武力 D
知力 E
計略 E
政治 E
人望 E
関連年表
190年代 袁紹の長子として青州刺史となり、田楷・孔融を破って青州を平定する
200年 父・袁紹が官渡で曹操に大敗する
202年 袁紹が病没。審配らが袁尚を擁立し、後を継げず車騎将軍を自称する
203年 黎陽で曹操に敗れる。逢紀を殺して袁尚と開戦し、平原へ追われる
203年 辛毗を遣わして曹操に救援を乞い、婚約を結ぶ
204年 曹操が鄴を攻める間に盟を破り、袁尚の領を切り従える
205年 南皮で曹操に敗れ、逃走の途中で討たれる
205年 旧臣・王脩が遺骸の収葬を曹操に乞い、許される

略歴

袁譚、字を顕思といい、河北の雄・袁紹の長子である。袁紹は諸子をそれぞれの州に配して治めさせる方針をとり、袁譚は青州刺史に任じられた。譚は平原を足場に、公孫瓚の任じた田楷を逐い、孔融を破って、青州の大半を袁氏の版図に収めている。ただしその統治は側近の小人を重んじて粗く、人心を失う面もあったと伝わる。 建安五年(200年)、父・袁紹が官渡で曹操に大敗し、建安七年(202年)に失意のうちに病没すると、袁氏の後継をめぐる争いが火を噴いた。袁紹は美貌の末子・袁尚を愛して後継と目しており、審配・逢紀らが袁尚を擁立。長子でありながら後を継げなかった袁譚は車騎将軍を自称し、郭図・辛評らを従えて弟と対立した。河北はここに二分される。 建安八年(203年)、黎陽の戦いで曹操に敗れたのち、兄弟の亀裂は決定的となる。袁譚は増援と武具を求めて拒まれると逢紀を殺し、ついに袁尚と兵刃を交えた。だが敗れて平原に追い詰められ、袁尚の包囲を受ける。ここで袁譚は郭図の策を容れ、辛毗を使者として、こともあろうに父の仇敵・曹操に救援を乞うた。曹操はこれを容れ、子の曹整と譚の娘の婚約まで結んでみせた。両袁を分断し、各個に撃破する狙いは明白であった。 建安九年(204年)、曹操が鄴を攻囲するあいだに、袁譚は盟を破って甘陵・安平・勃海・河間を切り従え、敗走する袁尚の兵を併せて勢力の回復を図る。曹操は約定違反を難じて婚約を解き、矛先を袁譚に向けた。建安十年(205年)、袁譚は南皮に拠って激しく抗戦したが力尽き、城は落ち、逃走の途中で討ち取られた。名門・袁氏の凋落を決定づける敗死であった。

逸話

袁氏分裂の種は、父・袁紹自身が蒔いたものであった。袁紹が諸子を各州に配そうとしたとき、謀臣・沮授は「万人が兎を追っても、一人が捕らえれば皆あきらめるのは、分が定まるからです。後継の分を曖昧にしたまま子らに力を持たせれば、禍いは必ずここから始まりましょう」と諫めた。袁紹は「わが子らにそれぞれ一州を握らせて、その器量を見たいのだ」と退けたという。はたして禍いは、沮授の言葉のとおりに始まった。 南皮の落城後、馬で逃れる袁譚は追手に追いすがられ、馬から転げ落ちた。振り返った譚は「これ、若いの、わしを見逃せ。おまえを富貴にしてやれるのだぞ」と叫んだが、追手は聞かばこそ、そのまま譚を斬った——名門の長子の、あまりに惨めな最期として伝えられる。 その死後、かつて袁譚に仕えた王脩は、遺骸が野にさらされていると聞くや曹操のもとへ赴き、「袁氏の厚恩を受けた身です。遺骸を収めて葬らせていただけるなら、その後で誅されても恨みはありません」と乞うた。曹操はその義を重んじ、黙って許したという。裏切りと離反に満ちた袁氏の末路にあって、ひとり光を放つ話である。

評価

袁譚は、名門袁氏の長子として一方の旗頭となりながら、後継の恨みから弟と争い、みすみす曹操につけ入る隙を与えた。兄弟の内訌がなければ河北の底力はなお侮れなかっただけに、その内輪もめは袁氏滅亡の最大の要因となった。 器量よりも家督への執着が身を滅ぼした、乱世の後継争いの典型である。

演義

小説『三国志演義』では、袁紹の子として登場し、父の死後、弟・袁尚との後継争いを繰り広げる。 曹操の巧みな離間と各個撃破の前に兄弟そろって没落していく過程が、名門袁氏の落日として描かれている。