きょしょう

許劭

字子将 生没年150年 – 195年 所属後漢

月旦評をもって天下の人物を品定めした鑑識家

能力値
統率 F
武力 F
知力 C
計略 E
政治 E
人望 C
関連年表
150年 汝南郡平輿県に生まれる
後漢末 従兄の許靖とともに郷里の人物を論じ、『月旦評』の名が起こる
— 郡の功曹となり、太守徐璆に重んじられる
— 無名の曹操を品題する
— 乱を避けて広陵に移り、陶謙の厚遇を警戒して去る
— 曲阿の揚州刺史劉繇に身を寄せる
195年 孫策に敗れた劉繇に豫章行きを説く
195年 劉繇とともに逃れた豫章で没する(46歳)

略歴

許劭、字を子将といい、汝南郡平輿県の人である。従祖の許敬、その子の許訓、さらにその子の許相と、三代にわたって三公を出した家に生まれた。兄の許虔も名を知られ、汝南の人々は「平輿の淵に二龍あり」と称した。 若くして名節を重んじ、人物の品評を好んで、多くの人材を見いだした。従兄の許靖とともに郷里の人物を論じ、月ごとにその品題を改めたので、汝南には「月旦評」の名が残った。ただし許靖とは私情が合わず、のちに郡の功曹となると、許靖を退けて取り立てなかった。功曹としては太守の徐璆に深く敬われている。若き日の曹操に与えた評語は、後世まで名高い。 公府の辟召を受け、方正・敦樸に挙げられ、朝廷から徴されても、いずれも就かなかった。仕官を勧められても、小人の道が伸びて王室はやがて乱れるから、淮水と海のほとりに難を避けて老幼を全うしたい、と答え、南の広陵へ移った。のちに徐州刺史の陶謙のもとを去り、曲阿に拠る揚州刺史の劉繇に身を寄せた。195年、孫策が長江を渡って劉繇を破ると、劉繇とともに豫章へ逃れ、その地で没した。四十六歳であった。

逸話

許劭が郡の功曹になったと聞くと、郡府のなかで、行いを改め身を慎まない者はなかったという。同じ汝南の袁紹は、名門の出で豪侠を好み、濮陽県令をやめて帰郷するときには、車と従者をおびただしく連ねていた。ところが郡境に入る手前で賓客をみな帰らせ、「わが車や衣服を、どうして許子将に見せられようか」と言って、ただ一台の車で家に帰った。 許劭の評は、誰を訪ね、誰を訪ねないかにも表れた。潁川に行ったときは多くの長老と交わりながら、陳寔だけは訪ねなかった。陳蕃が妻を郷里に葬ったときには、郷人がこぞって会葬したのに、許劭ひとりは行かなかった。わけを問われて答えた——「太丘(陳寔)は道が広い。広ければ行き届きにくい。仲挙(陳蕃)は性が厳しい。厳しければ通じるところが少ない。だから訪ねないのだ」。一族の許相が、宦官にへつらって三公の位と侯の爵を得、たびたび使いをよこして招いても、許劭はその行いを嫌って、ついに顔を出さなかった。 曹操も、許劭の品題を欲しがった一人である。『後漢書』によれば、無名のころの曹操は、へりくだった言葉と手厚い礼物で、しきりに自分を評してくれるよう頼んだ。許劭はその人となりを卑しんで応じなかったが、曹操は隙をうかがって許劭を脅した。やむをえず許劭が口にしたのは、「君は清平の世の姦賊、乱世の英雄だ」という言葉で、曹操はおおいに喜んで去った。名高い「治世の能臣、乱世の姦雄」は孫盛の『異同雑語』が伝える形で、こちらでは治世の側が褒め言葉になり、『後漢書』では逆に乱世の側が褒め言葉になっている。 乱を避けて広陵に移ると、徐州刺史の陶謙は許劭をきわめて手厚くもてなした。許劭はかえって落ち着かず、門人たちに告げた——「陶恭祖は外には名声を慕っているが、内は真っ正直ではない。いまは私を厚く遇しているが、その勢いは必ず薄くなる」。そして陶謙のもとを去った。のちに陶謙は、果たして身を寄せていた士人たちを捕らえている。 劉繇のもとでは、人物の見立てがそのまま軍略になった。孫策に敗れた劉繇が会稽へ逃れようとすると、許劭は止めた——「会稽は富み実っていて孫策が欲しがる地ですし、海の隅に追い詰められます。行ってはなりません。豫章がよい。北は豫州に連なり、西は荊州に接しています。吏民を集め、使者を遣わして貢ぎ物を献じ、曹兗州と通じておけば、間に袁公路がいても、あれは豺狼で長くはもちません。足下は王命を受けた身ですから、孟徳と景升が必ず手を差しのべるでしょう」。劉繇はこれに従った。豫章に入る笮融についても、許劭は、笮融は名分も義も顧みない男で、朱皓は人を誠実に信じすぎるから、ひそかに用心させるべきだと言っていた。笮融は果たして朱皓を欺いて殺した。 その品題が公平だったかどうかは、のちの魏でも議論になった。蒋済は『万機論』で、「許子将の褒貶は公平でない。樊子昭を抜擢して、許文休(許靖)を抑えた」と批判した。かつて許劭に才を認められた劉曄は、商家の小僧から引き立てられた樊子昭が、六十になっても退いては静けさを守り、進んでもむやみに争わないことを挙げて反論したが、蒋済は、行いは清くとも話しぶりを見れば文休の敵ではない、と譲らなかった。 人となりを卑しんで評を拒み、脅されてようやく「姦賊」の語を与えた曹操を、最後に頼るべき相手として劉繇に名指したのも、許劭であった。

評価

許劭は、人物鑑定という一芸をもって、乱世に確固たる名を残した。その「月旦評」は、人材が世に出るかどうかを左右するほどの権威を持ち、当時の人物評価の文化を象徴していた。 とりわけ、無名の曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と看破した評は、のちの曹操の生涯をみごとに言い当てたものとして、その鑑識眼の鋭さを、後世に強く印象づけた。

演義

小説『三国志演義』では、若き曹操の人物を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評する場面で登場する。 この一言は、これから乱世を駆け上がっていく曹操という人物を、読者に鮮烈に印象づける役割を果たしている。
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