しょかつせん

諸葛瞻

思遠 生没年227年 – 263年 所属

父・諸葛亮の名を背負い、綿竹に父子ともに殉じた忠烈の将

能力値
統率 D
武力 D
知力 D
計略 E
政治 D
人望 C
関連年表
227年 蜀漢の丞相・諸葛亮の子として生まれる
234年 父・諸葛亮が北伐の陣中、五丈原に没する(瞻は八歳)
243年頃 後主劉禅の娘を娶り、騎都尉となる
244年頃 羽林中郎将に任じられる
253年頃 侍中・尚書僕射を歴任する
261年 行都護衛将軍として国政の中枢を担う
263年 鄧艾の侵攻を受け、涪から綿竹へ退いて布陣する
263年 鄧艾の降伏勧告を斬り、子・諸葛尚とともに戦死する

略歴

諸葛瞻、字を思遠といい、蜀漢の丞相・諸葛亮の実子である。諸葛亮が四十を過ぎてようやく得た一子で、建興五年(227年)に生まれた。父が北伐の陣中、五丈原に没したとき、瞻はまだ八歳であった。 長じて才知をうたわれ、書画をよくし、記憶にすぐれた。十七歳のとき後主・劉禅の娘を娶って騎都尉となり、翌年には羽林中郎将に任じられた。以後、侍中・尚書僕射を歴任し、軍師将軍を加えられ、董厥とともに尚書の事を統べて、景耀四年(261年)には行都護衛将軍にまで昇り、国政の中枢を担った。 蜀の人々は亡き諸葛亮を深く慕っていたため、朝廷によい政令が下るたびに、たとえそれが瞻の献策でなくとも「これは葛侯(諸葛亮)の子のはたらきであろう」と噂しあった。こうして瞻の名声は、実際の功績を大きく超えて高まっていった。しかし宦官・黄皓が権勢をほしいままにするのを瞻は抑えることができず、大将軍・姜維がたびたび北伐に出て国を空けることにも批判的で、董厥とともにその路線を疎んじたともいう。 景耀六年(263年)、魏の鄧艾が陰平の険しい間道を踏破して蜀の内地へなだれ込むと、瞻は諸軍を率いて涪へ進み、これを防ごうとした。従事の黄崇は、はやく前進して要害を占め、敵を平地に出すなと涙ながらに説いたが、瞻はためらって進まず、そのすきに鄧艾は関門を破って進撃した。瞻は綿竹まで退いて陣を布いた。鄧艾は「降れば天子に奏して琅邪王に封じよう」と書を送って誘ったが、瞻は激怒して使者を斬り、決戦を挑んだ。「内には黄皓を除けず、外には姜維を制せず、進んでは国土を守れなかった。私には三つの罪がある」と嘆じて奮戦したが、衆寡敵せず戦死した。年三十七。長子の諸葛尚もまた「我ら父子は国の厚恩を受けながら、はやく黄皓を斬れなかった。今さら生きて何になろう」と叫んで敵陣に突入し、父に殉じた。

逸話

父・諸葛亮は、幼い瞻の非凡さをむしろ気がかりに思っていた。兄の諸葛瑾に宛てた書のなかで「瞻は今年で八歳になる。聡明でかわいらしいが、あまりに早く出来上がりすぎているのが気にかかる。大器とならぬのではないかと恐れる」と記している。 諸葛亮が瞻に遺した『誡子書』は、後世に広く読み継がれた。「君子の行いは、静をもって身を修め、倹をもって徳を養う。淡泊にあらざれば志を明らかにするなく、寧静にあらざれば遠きを致すなし」——瞻の字「思遠」も、この「寧静致遠」の語に由来するといわれる。 蜀の民が、よい政治を何でも瞻の手柄として語り伝えたのも、亡き諸葛亮への尽きせぬ追慕ゆえであった。瞻の令名は、その父の遺徳が子に投影されたものでもあった。

評価

諸葛瞻は、名宰相・諸葛亮の子として過大な期待を寄せられ、実務・軍略の経験を十分に積む前に大任を負わされた面がある。政略・用兵の巧者とは言い難かったが、綿竹における最期は、降伏勧告を退けて父子ともに戦場に散る忠烈の一語に尽きる。 その死は、蜀漢の落日を象徴する悲劇として、後世長く語り継がれた。

演義

小説『三国志演義』では、鄧艾の蜀侵攻を綿竹で防ぐ悲壮な将として描かれる。父・諸葛亮ゆずりの陣立てで一度は鄧艾軍を退けるが、衆寡敵せず、子・諸葛尚とともに討死する。 降伏勧告を斬り捨てて奮戦する姿は、諸葛家の忠義を締めくくる名場面として印象深く綴られている。