こうかん

高幹

字元才 生没年? – 206年 所属後漢

幷州に拠って曹操に抗した、袁紹の甥

能力値
統率 D
武力 E
知力 D
計略 E
政治 E
人望 E
関連年表
— 袁紹の甥として生まれる。陳留郡圉県の出で、高柔の従兄
— 幷州刺史となり、四方の遊士を招き集める
— 仲長統に「雄志ありて雄才なし。士を好むも人を択べず」と評される
202年 袁紹の死後、幷州に拠って袁氏の一方を支える
204年 鄴の陥落後、幷州をもって曹操に降り、刺史に再任される
205年10月 曹操の烏丸討伐の隙を突いて叛き、上党太守を捕らえて壺口関を守る
206年正月 曹操の親征を受け、匈奴の単于に救援を求めるが拒まれる
206年 壺関は三か月落ちず、曹仁の諫言で「皆坑之」の布告が撤回され降伏する
206年 荊州へ逃れる途上、上洛都尉の王琰に捕らえられて斬られる
後年 従弟の高柔は曹操に仕え、魏の司徒に至って九十歳の長寿を保つ

略歴

高幹、字を元才といい、袁紹の甥である。本貫は陳留郡圉県で、のちに魏の司徒となる高柔の従兄にあたる。 袁紹が子と甥に州を分け与えたとき、高幹は幷州刺史を任された。もとより家柄が貴く名もあったため、四方の遊士を招き集め、多くの士が帰属したという。 このころ、思想家の仲長統が高幹を訪ねている。高幹は厚く待遇して当世のことを訪ねた。仲長統の答えは、容赦のないものであった——「君には雄志があるが、雄才がない。士を好むが、人を択ぶことができない。これが君のために深く戒めるところです」。高幹はもとより自負の強い人であったから、この言を容れなかった。仲長統は去った。 建安七年(202年)に袁紹が病没し、袁譚と袁尚が争うなかで、高幹は幷州に拠って袁氏の一方を支えた。建安九年(204年)に鄴が陥落すると、高幹は幷州をもって曹操に降り、曹操は改めてこれを幷州刺史とした。 だが翌建安十年(205年)十月、高幹は再び叛く。曹操が烏丸討伐に向かうと聞き、その背後を突こうとしたのである。上党太守を捕らえ、兵を挙げて壺口関を守った。 建安十一年(206年)正月、曹操がみずから征討に向かった。高幹は別将を残して城を守らせ、自身は匈奴へ走って単于に救援を求めたが、単于はこれを受け入れなかった。 壺関は堅固で、曹操は三か月も囲んで抜けなかった。「城が落ちたら、ことごとく穴埋めにする」という布告を出していたためである。これを曹仁が諫めた——「城を囲むときは、必ず生きる道を示すものです。生路を開くためです。いま公は必死を告げられた。だから兵はみな自分のために守るのです」。曹操はこれに従って布告を撤回し、城は降った。 拠点を失った高幹は荊州へ逃れようとしたが、その途上、上洛都尉の王琰に捕らえられて斬られた。これによって河北における袁氏の残存勢力は、ほぼ一掃されるにいたった。 なお、高幹に呼ばれて一家を挙げて河北へ移った従弟の高柔は、のちに曹操に仕えて廷尉・司徒に至り、九十歳の長寿を保っている。

逸話

高幹の生涯を言い当てた評が、滅びる数年前に本人へ直接告げられている。 幷州刺史として四方の遊士を招き集めていたころ、思想家の仲長統が高幹を訪ねた。高幹は厚く遇して当世のことを問う。仲長統はこう答えた——「君には雄志があるが、雄才がない。士を好むが、人を択ぶことができない。これが君のために深く戒めるところです」。 志はあるが才が伴わない。人を集めるのは好きだが、人を見分けられない。面と向かってこれを言われた高幹は、自負の強い人であったから受け入れなかった。仲長統は去っていった。そしてほどなく高幹は幷州をもって叛き、敗れた。幷州と冀州の士は、このことで仲長統の見識を認めたという。 実際、高幹の叛旗のあげ方は、仲長統の評を裏づけるようなものであった。建安九年(204年)に鄴が落ちると、彼は幷州を差し出して曹操に降り、そのまま刺史に再任されている。ところが翌年十月、曹操が烏丸討伐に向かうと聞くと、上党太守を捕らえて兵を挙げた。背後を突くという判断そのものは理に合っている。だが曹操は烏丸へ向かう前に反転し、みずから幷州へ来た。 高幹の次の一手も、支えを失った。別将に城を守らせ、自身は匈奴へ走って単于に救援を求めたのである。だが単于は受け入れなかった。志を支える力が、どこにも無かったことになる。 皮肉なことに、残された壺関のほうは三か月も落ちなかった。曹操が「城が落ちたらことごとく穴埋めにする」と布告していたため、城兵が死にものぐるいで守ったのである。これを曹仁が諫めた——「城を囲むときは必ず生きる道を示すもので、生路を開くためです。いま公は必死を告げられた。だから兵はみな自分のために守るのです。しかも城は堅固で糧も多い。攻めれば士卒が傷つき、守れば日を引く。堅城の下に兵を置いて必死の虜を攻めるのは、良計ではありません」。曹操は布告を撤回し、城は降った。主が逃げたあとの城が、主がいたときよりよく守られていたことになる。 荊州へ落ちようとした高幹は、その途上で上洛都尉の王琰に捕らえられ、斬られた。 なお、この人に呼ばれて一家を挙げて河北へ移った従弟がいる。高柔である。袁氏の縁で河北へ来たこの従弟は、のちに曹操に仕えて法官として重んじられ、廷尉を経て魏の司徒に至り、九十歳の長寿を保った。曹操・曹丕・曹叡の三代を見送り、司馬氏の時代まで生き延びている。 袁紹の甥として州を預かり、最後まで抗って敗走の途上に斬られた者と、その縁故で河北へ来ながら新しい王朝で法を司り長寿を保った者。同じ一族の二人が、同じ時期の河北で、これほど違う道をたどった。

評価

高幹は、袁氏の一族として幷州を預かり、袁氏滅亡ののちもなお曹操に抵抗を続けた、粘り強い武人である。大勢はすでに決していたが、険阻に拠って最後まで抗ったその姿は、名門・袁氏の意地を示すものであった。 とはいえ、降って再び叛き、城を捨てて匈奴に救いを求め、拒まれて敗走した経緯は、仲長統が面前で告げた「雄志ありて雄才なし」という評を、そのまま裏づけるものであった。

演義

小説『三国志演義』では、袁紹の甥として幷州に拠り、曹操に抵抗する武将として登場する。 壺関の攻防などを経て、曹操に敗れて滅ぶ。袁氏の残党が掃討されていく過程を担う人物として描かれている。
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