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曹操と劉備の英雄論

三国志入門


二十五章:劉備の死

諸葛亮は劉備の死期を悟り、息子ら劉禅を連れて白帝城へ急ぎました。劉備は病気でやつれ、長らく心痛で悩んでいたことが伺えたのです。
劉備は云いました。

「丞相(諸葛亮)、君に出会うことができて私は帝位に就くことができた。これ以上の栄誉は無い。私の死後も今まで通りに蜀を支え、漢再興のために尽くして欲しい。太子劉禅が皇帝の器でないのであれば、君が帝位に就き天下泰平のために指揮をとってくれ。」

諸葛亮は涙を隠しながら劉備を安心させました。

更に太子劉禅に云いました。

「禅よ。よく意見を伺いよく人材を用いて名君として民を守れ。丞相を父と思いここに平伏しなさい。」

劉禅は諸葛亮に平伏し、父として尊敬することを誓うのでした。また劉備は趙雲にも云いました。

「長年連れ添い、関羽張飛と同等に我が兄弟である。君には本当に感謝している。これからも禅を守り蜀を支えて欲しい。」

趙雲は涙を流して言葉を失い、劉備を惜しむのでした。

これが三国志演義の名場面として有名な劉備の遺言であります。また正史にも一部同じ場面が描かれており、この劉備の遺言は深く感銘し、後世に語り継がれているのです。こうして数日後、劉備は白帝城で崩御し、白帝城は永安(えいあん)と改州されるのでした。

遺言通りに諸葛亮は、劉禅を帝位に就かせ、漢中に魏延を併州を馬超、永安に李厳らを置き守りを固めたのです。この劉備の死を知り手を叩いて喜んだのが魏の曹丕でした。曹丕は司馬懿(しばい)の進言により、五路より蜀を攻める提案を行うのでした。五路とは、漢中へ曹真軍が攻め込み、羌(きょう)と南蛮に呼応させ、上庸より孟達軍を永安を攻め込ませ、呉を動かすという作戦です。

蜀はこの五路の進行により攻め込まれ一大事としましたが、諸葛亮は一計を案じて防ぎきる策を持っていました。しかし、一つだけ心配だったのが呉の動向だったのです。今後の魏討伐において呉の動向に釘を刺す必要があり、呉と再び同盟を締結させることだったのです。諸葛亮は適任を探し、そして鄧芝(とうし)という人物に使者として呉へ派遣しました。

呉の孫権は蜀の出方を伺い鄧芝を脅しますが、鄧芝の決死の覚悟により蜀呉は再び同盟を結び、呉の孫権を呉王と認可することになったのです。

そして魏の五路作戦は、羌族の進行には馬超で対峙させ、かつて錦馬超と恐れられたことに付け込み勝利します。上庸の孟達に対しては、友人の李厳を対峙させました。孟達は友人とは戦いたくない理由に病気で伏せるフリをして戦わなかったのです。漢中へ進行した曹真軍は趙雲が対峙し、あっという間に撃退するのでした。これにより魏の五路作戦は失敗に終わるのです。

しかし、南蛮の孟獲(もうかく)は反乱を起こして自ら王を名乗り、長期戦となっていたのでした。
次回は諸葛亮の南蛮行、三国志演義第二の主人公物語が始まります。