三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 25人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 8月の出来事
司馬懿が73歳で病死

後漢伝


袁術 公路えんじゅつ こうろ

姓名袁術
公路
生没年? - 199年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評名門の袁家の出身、一大勢力を築いて悪政を尽くした群雄
主な関連人物 袁紹 袁胤 袁燿 
関連年表 189年 南陽太守となる
192年 左将軍となる
196年 呂布と共同して劉備を破る
197年 皇帝を僭称して仲を建国
197年 淮水の戦い

略歴

袁術、字を公路という。父は司空の袁逢、同母兄は袁基、子は袁燿、従兄に袁紹がいる。

狭気があることで知られていた。孝廉に推挙され、郎中に任命され、中央と地方の職を歴任したのち、折衝校尉・虎賁中郎将となった。

董卓が少帝を廃そうとしたとき、袁術を後将軍に任じた。袁術も董卓からひどいめにあうのをおそれ、南陽に逃亡した。ちょうどそのころ、長沙太守の孫堅が南陽太守の張咨を殺害したところで、袁術は南陽郡を支配することができた。南陽の戸数人口は数百万もあったが、袁術が贅沢三昧、欲望のままに行動し、税金を際限なく取り立てたので、人々は苦しんだ。

幽州の牧の劉虞はかねてから徳が高くて人望があり、袁紹らは彼を皇帝に立てて当時の状況を安定させようと考え、使者をやって袁術にその旨伝えさせたが、袁術は漢王朝の衰退を観察して、ひそかに異心を抱いていたため、表向きは公義にかこつけて袁紹の提案を拒絶した。

袁術は袁紹との仲にひびが入ったうえに、荊州刺史の劉表ともうまくいかなかったため、北方の公孫サンと手を結んだ。袁紹のほうは公孫サンと不和であったため南方の劉表と手を結んだ。彼ら兄弟同士が仲違いをし、近いものをおいて遠いものと交わりを結ぶありさまは、このようであった。

袁術は軍隊をひきいて陳留に侵入した。曹操は袁紹と連合して攻撃し、袁術軍を大いに撃破した。袁術は残った軍勢をつれて九江に逃亡し、揚州刺史の陳温を殺害し、その州を支配し、張勲・橋ズイらを大将軍に任命した。

李カクは長安に入城すると、袁術と手を握り味方につけたいと思い、袁術を左将軍に任じ、侯に取り立て、節を与えることとし、太傅の馬日テイに各地の将軍のもとを巡行させたおり、叙任を行わせる手はずであった。袁術は馬日テイのもっている節を奪いとり、拘留して帰さなかった。

沛の相、下ヒ出身の陳珪は、袁術と同じく三公を生んだ氏族の子弟であったため、若い時から互いに往来していた。袁術は陳珪の二番目の子の陳応をおどして人質にとり、陳珪を呼び寄せようと謀った。陳珪は書簡で、暴虐ぶりを説いて拒絶した。

195年、漢の皇帝は長安から脱出し、李カク、郭汜らに追撃され曹陽において敗北した。袁術は配下の者を集めて、漢王朝の衰退と混乱を理由に、みずから皇帝を名乗り天命にこたえたいと言った。誰も思いきって答える者はなかった。すると、主簿の閻象が進み出て、これを諌めた。袁術は押し黙ったまま不機嫌な様子だった。

197年、天の意志を示す端兆が下ったという河内の張ケイの説を採用して、皇帝を僭称した。九江太守を淮南の尹(首都長官)に任命し、公卿を置き、祭祀を行なった。袁術は袁という姓が陳から出ており、陳は舜の子孫であることから、土が火をうけつぎ、五行のめぐりあわせにかなっていると考えた。また預言者に、「漢に代わるものは、当塗高である」というのをみて、自分の名と字がこれに該当すると考え、そこで称号をたて仲氏と称した。

荒淫や奢侈はますますひどくなり、後宮の数百人の女たちは皆あやどりをした薄絹を身にまとい、上質の米と肉はありあまっていた。一方士卒は飢えこごえ、領域である長江と淮河にはさまれた地帯は何ひとつなくなり、人々は互いに食いあいをするありさまだった。

その後、袁術は呂布によってうち破られ、後に曹操によって撃破されて、配下の雷薄・陳蘭のもとに逃げたが、そこでも受け入れてもらえず、心配と恐怖に、どうしてよいかわからなかった。袁術は、三日間その地に滞留していたが、兵卒たちの食糧がきれた。そこで寿春から八十里離れた江亭まで引き返した。炊事係にたずねると、まだ麦のくずが三十石残っている有り様だった。

袁術は、そこで皇帝の称号を袁紹に送り、青州に行って袁譚のもとへ身を寄せようとして出発した。ちょうど夏のさかりであったため、蜂蜜入りの飲み物が欲しいと思ったが、蜂蜜もなかった。袁術はひさぎの木の寝台に腰を下ろし、しばらくため息をついていたが、やがて大声で、「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、突然寝台の下にうつぶせになり、一斗あまりの血を吐いて死んだ。

袁術の妻子は袁術の元の家来である盧江太守の劉勲のもとへ身を寄せたが、孫策が劉勲を打ち破った際に、またひきとられて世話をうけた。


演義

小説『三国志演義』では「伝国の玉璽」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、第二十一回での袁術の死の描写では、雷薄・陳蘭らに略奪を受けついに糧食尽き、最後は蜜水を持ってくるよう料理人に命じたところ「ただ血水があるだけです。蜜水などどこで得られましょう」と言われ、絶望して血を吐いて死んだとなっている。