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呂布が董卓を殺害する

後漢伝


公孫瓚 伯珪こうそんさん はくけい

姓名公孫瓚
伯珪
生没年? - 199年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評北方の勇将として知られ、劉備と共に兵学を学んだ群雄
主な関連人物 袁紹 劉虞 盧植 劉備 
関連年表 186年 張純の乱
191年 奮武将軍・薊侯となる
193年 劉虞を破る
199年 易京の戦い

略歴

公孫サン(サンは[王偏]に[賛])、字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。従弟に公孫範、公孫越、子は公孫続らがいる。

遼西郡の門下書佐に任命された。容姿美しく大声の持主だったために、侯太守が秀れた人材だと認め、自分の娘と結婚させ、琢郡の盧植のもとにやって、経書を学ばせた。後にふたたび郡の役人になった。

劉基太守が法律に触れ、廷尉のもとに連行された際、公孫サンは法律では下役人が近づくことを禁止していたが、衣服を変え、囚人車の従者となり、自身で雑役を引き受けてやった。劉基が日南郡に流されることになると、公孫サンは米と肉をお供えとしてささげ、北芒山の上で先祖を祭り、盃をかかげて祈願して、先祖に別れを告げ、再拝して感情を激しくたかぶらせて立ち上がった。このとき、そのありさまを見ていた者は、みなすすり泣いたのだった。劉基太守は途中で赦免され帰還することができた。

公孫サンは孝廉に推挙され郎となり、遼東属国長史に任命された。あるとき、数十騎をひきつれて城を出、辺境の砦を巡視し、数百騎の鮮卑族をみかけた。公孫サンはそこで人気のない物見台の中に引き退き、部下の騎兵に、これを突破しなければ殺されてしまうとして脅しつけると、みずから矛を手に持ち、その矛の両側に刃をつけ、馬を走らせて出撃し、えびすを刺殺した。数十人を殺傷したが、部下の半数が落命した。こうして、のがれることができたのだった。鮮卑族はこれに懲りて、その後、二度と国境を越えて侵入しようとはしなかった。

琢県の令に栄転した。光和年間、涼州の賊徒が蜂起したとき、幽州の突撃騎兵隊三千人の出動を命じ、公孫サンに都督行事の割符を与えて、彼らを指揮させた。軍隊がやってきたとき、漁陽の張純が遼西郡の烏丸族の丘力居らをひきこんで叛旗をひるがえし、属国の諸城を攻撃し、破壊を行なった。公孫サンは配下をひきつれ、張純らを追撃し手柄をたて、騎都尉に昇進した。

属国の烏丸族の王が部族民をひきつれて公孫サンに降服した。公孫サンは中郎将に昇進し、都亭侯にとりたてられ、前進して遼東属国に駐屯し、えびすと五、六年間にわたって攻防をくりかえした。丘力居らが青州・徐州・幽州・冀州を荒らしまわったため、被害を被り、公孫サンは防ぎ止めることができなかった。

朝廷では、宗正の東海郡の劉虞は徳義あって、昔、幽州刺史として、恩恵と信義をゆきわたらせ、えびすたちも彼に心服しているゆえ、鎮撫できれば、兵を労さずに安定させられると判断し、劉虞を幽州牧に任命した。劉虞は着任すると、反逆をつづける場合の利害を説いて、張純の首を送れと厳しく要求した。丘力居らは、劉虞がやってきたことを喜んで、それぞれ通訳をさしつかわして、帰順を申し出た。

公孫サンは、劉虞の手柄を妨害するために、こっそり人をやって、えびすからの使者を待ち伏せして刺殺させた。えびすのほうでは事情がわかると、間道づたいに劉虞のもとにやってきた。劉虞は上表して、諸地の駐屯兵をひきあげ、ただ公孫サンのみを留めて、歩兵・騎兵一万をひきいて、右北平に駐屯させた。張純はそこで妻や子を見捨てて、鮮卑族に逃げ込んだが、食客の王政に殺害され、その首は劉虞のもとに送りとどけられた。

劉虞は手柄によってすぐさま大尉に任命され、襄賁侯にとりたてられた。ちょうどそのころ、董卓が洛陽に到着し、劉虞を大司馬に昇進させ、公孫サンを奮武将軍・薊侯にとりたてられた。

反董卓連合の義軍が決起すると、董卓は帝を脅迫して長安へ遷都した。劉虞の子の劉和は侍中として、長安に滞在していた。天子(帝)は、洛陽へ帰りたいと考え、劉和に董卓のもとから脱走したとみせかけ、実はひそかに武関から出て劉虞のもとへ赴き、軍隊をひきつれて自分を迎えにこいと命じた。劉和は袁術の領内を通過する途中、彼に天子の意向を説明した。公孫サンは袁術が二心を持っていることを見抜いていたため、軍隊の派遣を望まなかったが、劉虞は聞かなかった。公孫サンは、袁術がこのことを聞き知って彼を怨むのを恐れ、彼も自分の従弟の公孫越に千騎をひきいさせ、袁術と手を結ぶ一方、内密に劉和を逮捕して、劉虞から派遣された軍勢を奪いとるよう策動した。このことから劉虞と公孫サンはますます険悪になった。

袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じてその陣地を奪取させた。袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃したが、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。公孫サンは激怒して、弟が死んだのは袁紹のせいだといい、袁紹に報復しようとした。袁紹は恐れて、勃海太守の印綬を、公孫サンの従弟の公孫範に与え、友好関係を結ぼうとした。ところが公孫範はそのまま勃海郡の兵をひきつれ公孫サンに助勢し、黄巾賊を打ち破って軍勢はますます強力となって、界橋まで進軍した。

袁紹は広川に陣地をおき、大将の麹義を先陣として公孫サンと交戦させ、公孫サン配下の厳綱を生け捕りにした。公孫サンは勃海を敗走し、公孫範とともに薊に帰還した。

州庁のある薊で大きな城の東南に小さな城を造営させたが、劉虞の居所と接近していたため、次第に双方の敵意が深まった。

劉虞は、公孫サンが乱を起こすことを恐れ、ついに軍隊を動かして公孫サンを攻撃した。しかし劉虞は打ち破られ、居庸に逃走した。公孫サンは居庸を攻め落とし、劉虞を生け捕りにし、劉虞を捕虜として薊につれ帰った。

おりしも董卓が死んだため、天子は、使者の段訓をつかわして劉虞の所領を増やし、公孫サンは前将軍に昇進し、易侯にとりたてられた。公孫サンは、劉虞が皇帝を名乗ろうとしていると誣告し、段訓を脅迫して劉虞を斬刑に処した。かくして公孫サンは慢心し、人の過失は記憶にとどめ、善行は忘れ去って、多くの人々を毒牙にかけた。

劉虞の従事、漁陽郡の鮮于輔と斉周、騎都尉の鮮于銀らは、公孫サンに復讐せんとし、燕国の閻柔を烏丸司馬に推したてた。閻柔は烏丸族と鮮卑族に誘いかけ、異民族・漢人あわせて数万を手に入れ、公孫サンの配下の鄒丹と交戦し、打ち破って鄒丹を斬り殺した。袁紹のほうでも麹義と劉虞の子の劉和に軍兵を指揮させ、公孫サンを攻撃させた。

公孫サンはたびたび敗北を重ね、その結果易京に逃げ帰って、守備を固めた。城壁を高くして土山を築き、物見の楼を築いた。三百万石の穀物をたくわえ、そこに居住し、これを頼りながら袁紹の疲れを待つつもりだった。袁紹は何年経っても陥落させることができなかった。

199年、袁紹は全軍をあげて公孫サンの守備する城を包囲した。公孫サンは息子を使者に立てて黒山賊に救援を依頼させる一方、自分も突撃騎兵隊をひきいて、一気に包囲を突破し、冀州を抑えて袁紹の背後を断ち切ることを考えた。長史の関靖が公孫サンを諌めて、篭城して袁紹が撤退するのを待つように進言した。公孫サンはけっきょく出撃を中止した。

公孫サンは、黒山賊の救援が到着したならば、内外から袁紹を攻撃するつもりで、期日を定めて、のろしをあげて知らせよ述べた。しかし、袁紹の斥候がその手紙を手に入れ、約束の期日にのろしをあげた。公孫サンは救援隊が来たものと思いこんで、そのまま出撃したが、袁紹は伏兵を設けて、さんざんにこれを打ち破ったため、公孫サンは引き返して守備を固めた。

袁紹は地下道を掘って、その城楼を突きくずし、だんだんと公孫サンへと近づいた。公孫サンは敗北をまぬがれぬと悟り、その妻子を殺害したのち、自殺した。享年不明。


評価

『献帝春秋』によると、公孫サンは薊城が崩壊する夢をみて、自分が必ず敗北することを悟った。そこで密使を派遣して、息子の公孫続に手紙を送った。袁紹の斥候がそれを手に入れ、陳琳にその手紙を一部書き直させ、送り届けた。このことが敗北の結果に繋がったのであった。

高い物見の楼を四桁ほど作り、公孫サンはそこで居住しながら、公文書さえも紐を使ってやりとりをして、直接配下と面識することはなかった。こうしたことから、公孫サンは、袁紹に包囲されて以来、恐怖していたのであった。

裴松之の評では、公孫サンは黄巾賊を打ち破った勢いに乗って、野心を大きくふくらませ、三州に刺史を「置き、袁紹を討ち滅ぼそうと計画した。敗北を招いたのは当然である」としている。

公孫サンは武勇に優れ白馬に乗っていた。また降伏させた烏桓族から、騎射のできる兵士を選りすぐって白馬に乗せ「白馬義従」と名づけたので、異民族から「白馬長史」と恐れられた。

当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで多大な成果を上げ、莫大な利益を得ていた。


逸話

公孫サンは、役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、凡庸な者を重用した。公孫サンは「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。このことが「名士を軽んじて、つまらない身分の人物を重用した」と非難されているが、袁紹との戦いにおいて名士たちがこぞって名門の出である袁紹を支持した事もあって、人間不信に陥ったという側面もあり、公孫サンばかりを責めるべき問題ではなかった。一説では、公孫サンの生母が下賎の出で、彼が少年時代に有力豪族であった実父に疎まれた家庭環境の複雑な事情があった見方も窺える。