213年
じゅしゅこうのたたかい

濡須口の戦い

曹操の南下を孫権が長江で退けた戦い。甘寧の百騎夜襲、曹操の「生子当如孫仲謀」で名高い。

時期
213年(建安18年)
場所
濡須口(安徽省馬鞍山市(濡須水と長江の合流点))
結果
決着つかず(曹操が撤退)
兵力
諸説あり
立脚点
正史

概説

213年、赤壁の雪辱を期す曹操が大軍で南下し、呉の孫権と長江の濡須口で対峙した戦い。孫権は水軍を頼みに堅く守り、甘寧が百騎で曹操の陣を夜襲するなど気を吐いた。曹操は整然たる呉軍を望んで「子を生まば当に孫仲謀のごとくなるべし」と嘆じ、決着のつかぬまま兵を引いた。

背景

赤壁の敗戦から勢いを立て直した曹操は、長江を挟んで対峙する呉を屈させるべく、大軍を率いて濡須へ南下した。孫権は呂蒙の進言で築いた濡須の要害に拠り、水軍を整えてこれを迎え撃つ。

経過

曹操軍が江北に布陣すると、孫権はしばしば水軍を繰り出して挑んだ。呉の甘寧は、わずか百騎を率いて夜陰に曹操の陣へ斬り込み、敵を混乱させて一兵も損なわず引き揚げる離れ業を演じ、孫権を大いに喜ばせた。孫権自らも軽舟で曹操の水寨を偵察し、その水軍の統制ぶりに曹操は舌を巻いたという。両軍は一月余り対陣したが、長江の険は破れず、雨期が近づくと曹操は撤退を決めた。

結末と影響

曹操は退き際、孫権の器量を認めて「子を生まば孫仲謀のごとくなるべし」と嘆じたと伝わる。濡須口はその後も魏と呉が繰り返し争う最前線となり、呉はこの水域を盾に長江の防衛線を守り抜いた。曹操をもってしても長江を越えて江南を制することはできず、三国鼎立の形勢はいっそう固まった。