194年
ぼくようのたたかい

濮陽の戦い

留守に兗州を奪った呂布と曹操の死闘。典韋が武名を上げ、曹操は火計から辛くも脱した。

時期
194年〜195年(興平元〜2年)
場所
濮陽(河南省濮陽市)
結果
曹操が兗州を回復(当初は呂布が優勢)
兵力
諸説あり
立脚点
正史
別名
兗州争奪戦

概説

194年、曹操が留守の間に兗州を奪った呂布と、これを取り戻そうとする曹操が濮陽で繰り広げた死闘。曹操は火計に遭って危地に陥りながらも、猛将 典韋の奮戦などに支えられて持ちこたえた。百日以上に及ぶ攻防は、蝗害による飢饉で双方が兵を引くまで続いた。

背景

194年、曹操が父の仇を報じるべく徐州へ出兵した隙をつき、陳宮らに迎えられた呂布が兗州を奪って濮陽に拠った。本拠を失いかけた曹操は、急ぎ軍を返して濮陽で呂布と対峙する。曹操にとっては、覇業の足場そのものを賭けた戦いであった。

経過

濮陽の攻防は一進一退をきわめた。あるとき曹操は城内へ攻め込んだが、呂布方の火計に遭って炎に囲まれ、あやうく焼き殺されかける。落馬して手を焼く危地に陥りながらも、辛くも脱出した。この戦いで、力自慢の典韋が十数本の戟を小脇に抱えて敵中へ躍り込み、群がる兵をなぎ倒して主を守り、その武名を一気に高めた。両軍は百日以上も対陣を続けたが、折からの蝗害で兵糧が尽き、いったん兵を引いた。

結末と影響

態勢を立て直した曹操は、翌195年に改めて呂布を攻めてこれを破り、兗州を回復した。敗れた呂布は徐州の劉備のもとへ逃れる。濮陽の死闘は、曹操が本拠を失う寸前まで追い詰められた苦難の記憶であるとともに、典韋という無双の勇将を世に知らしめた戦いでもあった。