かし

何太后

諡霊思皇后 生没年? – 189年 所属後漢

兄と宦官の間で揺れ、董卓に毒殺された霊帝の后

能力値
統率 F
武力 F
知力 E
計略 E
政治 E
人望 E
関連年表
— 南陽郡宛県の屠殺を業とする家に生まれる(身の丈七尺一寸)
— 宦官の手引きにより後宮へ入る
176年頃 皇子・劉弁(のちの少帝)を生む
180年 皇后に立てられる
181年頃 劉協の生母・王美人を毒殺する
181年頃 霊帝が廃位を決しかけたが、宦官の固い請願で止まる
189年 姑の董太后を都から追い、董太后は憂死する
189年4月 霊帝の死後、子を帝位につけ皇太后として臨朝する
189年 恩のある宦官の誅滅に、兄・何進へ強く反対する
189年8月 何進が宮中で謀殺され、弟の何苗も兄の部下に討たれる
189年9月 董卓に少帝を廃され、永安宮へ遷される
189年 「姑への不孝」を口実に董卓から毒を賜る(霊思皇后)

略歴

何氏は、後漢の霊帝の皇后である。南陽郡宛県の人。『後漢書』はその生家を「屠者の家」——屠殺を業とする家と記す。身の丈七尺一寸の長身であったという。 後宮に入ることができたのは、宦官の手引きによるものであった。やがて霊帝の寵を得て、皇子・劉弁(のちの少帝)を生み、光和三年(180年)に皇后に立てられた。兄は、のちに大将軍となる何進である。 性は強く、嫉妬深かったと正史は評する。霊帝のもう一人の寵姫が皇子・劉協(のちの献帝)を生むと、何后はその母を毒殺した。このとき皇后の地位を失いかけたが、宦官たちの働きによって難を免れている。 母を失った劉協は、霊帝の生母である董太后が引き取って養った。ここから、後継をめぐる嫁と姑の対立が始まる。中平六年(189年)、何后は兄を動かして姑を都から追い、董太后はまもなく世を去った。 同年四月に霊帝が没すると、何氏は子の劉弁を帝位につけ、皇太后として臨朝した。兄・何進と結んで政を執ったが、兄が袁紹の勧めに従って宦官を一掃しようとしたときには、強く反対している。 その躊躇のうちに、何進は宮中へ誘い込まれて殺された。弟の何苗もまた討たれ、何氏一族は後ろ盾を失う。 そして都に乗り込んだ董卓が実権を握ると、運命は決した。董卓は少帝を廃して劉協を立て、何太后を永安宮へ遷したうえで、毒を用いて弑した。霊思皇后と諡された。

逸話

何太后が兄の宦官誅滅に反対した理由は、情でも迷いでもない。借りがあったのである。 霊帝のもう一人の寵姫・王美人が皇子を懐んだとき、王美人は何后を畏れて、薬を服んで子を堕そうとした。だが胎は動かず、無事に生まれた。その子が劉協——のちの献帝である。何后はこの美人を毒殺した。 霊帝は激怒した。『後漢書』は「帝、大いに怒り、后を廃せんと欲す」と記す。皇后が、帝の子の母を殺したのだから当然である。 ここで何后を救ったのが、宦官たちであった。彼らが固く請願したため、廃位は止まった。張譲がのちに何進へ向かって「先帝がかつて太后と不快になり、ほとんど破局に至ろうとしたとき、われらは涕泣して救い解いた」と訴えたのは、この一件を指している。 つまり何太后は、夫の子の母を殺して廃されかけたところを、宦官に救われていた。その恩人たちを根絶やしにするという兄の計画に、彼女が同意できるはずがなかった。 もう一つ、この人が背負っていたのは姑との対立である。毒殺された王美人の子・劉協を引き取って育てたのは、霊帝の生母・董太后であった。孫を手元で養う祖母と、自分の子を推す嫁——次代の帝位をめぐって、二人は正面からぶつかった。 中平六年(189年)、何后は兄の何進らを動かして董太后を都から追い出した。董太后はまもなく憂いのうちに急死する。民間では、これを何氏の仕業と見る声が立った。 そしてこの一件が、彼女自身の死の口実になる。 同年、都に乗り込んだ董卓は、少帝を廃して劉協を立てた。董太后が育てた、あの子である。そして何太后を永安宮へ遷すにあたって、董卓が掲げた理由がこうであった——何太后は永楽宮(董太后)を圧迫して憂死させ、婦姑(嫁と姑)の礼に逆らった。 姑を死に追いやった不孝を咎める、という名目で、何太后は毒を賜った。葬儀では、公卿以下に喪服を着ることさえ許されなかったという。 一族も残らなかった。兄の何進は宮中で謀殺され、弟の何苗は宦官と通じていたとして兄の部下に討たれた。屠殺を業とする家から出て皇后・皇太后まで登りつめた一族は、この一年のうちに跡形もなく消えた。 皇子の母を殺し、宦官に救われ、その恩があるために宦官を守り、姑を追い出し、その姑への不孝を理由に殺される。何太后の生涯は、自分が結んだ鎖に一つずつ首を絞められていくような軌跡を描いている。

評価

何氏は、屠殺を業とする家から皇后・皇太后へ上りつめながら、兄と宦官の対立のはざまで動けなかった。宦官に反対できなかったのは優柔ではなく、皇子の母を毒殺して廃されかけたところを彼らに救われた借りがあったからである。その借りが兄の死を招き、姑を追った罪が自身の死の口実となった。 董卓によって子を廃され、自らも毒殺されたその最期は、後漢の崩壊の渦に呑まれた外戚一族の悲運を、そのまま映している。

演義

小説『三国志演義』では、何進の妹・少帝の母として登場する。宦官誅滅をめぐって兄と対立し、その優柔が事態を悪化させる。 董卓の専横のもとで少帝を廃され、自らも毒を賜って死ぬ。後漢の宮廷が崩れ落ちていく過程の一齣として描かれている。
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