べんし

卞氏

武宣皇后 生没年160年 – 230年 所属

倡家より身を起こし、慎み深く後宮を治めた曹操の正夫人

能力値
統率 F
武力 F
知力 D
計略 E
政治 D
人望 B
関連年表
160年 琅邪郡開陽県の倡家に生まれる
179年頃 二十歳のとき、譙において曹操に侍る
187年 長男・曹丕を生む(のち曹彰・曹植・曹熊)
190年頃 曹操の死の誤報に際し、去ろうとする家中を引き止める
200年頃 丁夫人が去ったのち正室となり、母のない諸子を養育する
219年 「諸子を撫育し、母たるの徳有り」として王后に立てられる
220年 曹丕の即位により皇太后となり、永寿宮と称する
220年代 郭皇后に迫って曹洪を死罪から救う
227年 孫の曹叡の即位により太皇太后となる
230年 崩じ、武宣皇后と諡されて高陵に合葬される

略歴

卞氏は、徐州琅邪郡開陽県の人である。生家は倡家——歌舞や芸事を生業とする家であり、後漢の士大夫の家柄からは遠い出自であった。 二十歳のとき、曹操の故郷である譙において、その側に侍ることになる。光和二年(179年)ごろのことである。のちに曹丕・曹彰・曹植・曹熊の四子を生んだ。 その人となりを世に知らしめたのは、中平六年(189年)に始まる董卓の乱であった。曹操は身をやつして洛陽を脱出し、消息を絶つ。そこへ袁術が「曹操は死んだ」という報せを流した。曹操に仕えていた者たちは、皆その場を去ろうとする。これを押しとどめたのが卞氏であった。主の生死も定かでないうちに散るのは、生きて帰ってきたときに顔向けができぬ振る舞いである——そう説いて家中をつなぎ止めた。のちにこれを聞いた曹操は、彼女を賢しとしたという。 正室の丁夫人は、長男・曹昂が宛城で戦死したことを恨んで曹操のもとを去った。その後、卞氏が正室に立てられる。以後、母を持たない曹操の子らは、すべて卞氏が引き取って育てた。 建安二十四年(219年)、曹操は卞氏を王后に立てた。その策書は「夫人卞氏、諸子を撫育し、母たるの徳有り」と、その功をまさに養育に求めている。 生活は徹底して質素であった。用いる器はすべて飾りのない黒漆塗りで、刺繍や珠玉のたぐいを身につけることがなかった。賜り物があっても分に過ぎるものは受けず、身内が官位や富を求めることを厳しく戒めた。 延康元年(220年)、曹丕が帝位に即くと皇太后となり、永寿宮と称された。太和元年(227年)に孫の曹叡が立つと太皇太后として尊ばれる。太和四年(230年)五月に崩じ、武宣皇后と諡されて、七月に曹操の眠る高陵へ合葬された。七十一歳であった。

逸話

曹操の消息が絶えたときの一言が、この人の器を最もよく伝えている。董卓の乱で曹操が身をやつして洛陽を落ちのび、袁術が「曹操は死んだ」と触れ回ったとき、家中の者は皆その場を去ろうとした。卞氏は彼らを引き止めて言った——「曹君の吉凶は、まだ分からないのです。今日みなが家に帰って、明日あの方が生きておられたら、どんな顔をして再びお会いするのですか。たとえ本当に禍が及んだのだとしても、ともに死んで何の苦がありましょう」。人々は留まった。 その慎ましさを示す逸話として名高いのが、耳飾りの話である。曹操は名品の耳飾りをいくつか手に入れ、卞氏に好きなものを一つ選ばせた。卞氏が取ったのは、中くらいのものであった。なぜかと問われて、こう答えたという——「上を取れば貪欲となり、下を取れば偽善となります。ですから中を取りました」。謙譲を演じることの傲慢さまで見抜いた答えであった。 前妻・丁夫人への態度も、しばしば語られる。丁夫人は曹昂の死を恨んで去り、卞氏が正室となった。だが卞氏は、丁夫人が里帰りするたびに自ら迎え、上座に据えて自分は下座に着き、以前と変わらぬ礼を尽くしたという。丁夫人が病没したときには、曹操に願い出てこれを葬らせた。地位が入れ替わってなお、順序を踏み違えなかったのである。 その一方、必要とあれば帝にも譲らなかった。曹丕は若いころ、裕福でありながら吝嗇な曹洪に借財を断られた恨みを忘れず、帝位に即いたのち、罪に事寄せて曹洪を死罪にしようとした。群臣が救いを求めても聞き入れない。そこで卞太后は、息子ではなく郭皇后に向かってこう言い放った——「もし曹洪が今日死ぬようなことになれば、私は明日、帝に命じてお前を廃させます」。郭后は泣いて幾度も願い、曹洪は免官・削爵で命を拾った。 後世の逸話集『世説新語』には、さらに痛切な話が伝わる。曹丕が弟の曹彰を妬み、卞太后の部屋で碁を打ちながら食べた棗に毒を仕込んだ。苦しむ曹彰のために太后が水を求めると、曹丕はあらかじめ水がめをすべて壊させていた。太后は裸足で井戸へ走ったが、汲む器がない。曹彰はそのまま息絶えた。太后は曹丕にこう言ったという——「お前はもう私の任城(曹彰)を殺した。私の東阿(曹植)まで殺すことは、断じて許しません」。ただし正史の記述では、曹彰は黄初四年(223年)に洛陽で病没しており、この話は史実とは認めがたい。それでも語り継がれたのは、才を競い合った兄弟のあいだに立ち続けた母の像が、人々の胸に残ったからであろう。

評価

卞氏は、士大夫の家柄とは遠い出自から身を起こしながら、驕ることなく慎みと聡明さを保ち続けた賢夫人として、後世に高く評価された。乱世の英雄・曹操を内から支え、曹丕・曹植ら才子を生み育てた母でもある。 華美を退け、身内の増長を戒めたその生き方は、後宮の乱れが政を傾けることの多い時代にあって、際立った見識を示している。

演義

小説『三国志演義』では、曹操の夫人・曹丕らの母として名が現れる程度で、大きくは描かれない。 史実における賢夫人としての事績よりも、曹操の一族を語るうえでの背景として位置づけられている。
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