ちょうひょう

張表

字伯達 生没年生没年不詳 所属蜀

名声高く、南中を治めた蜀の名士

能力値
統率 D
武力 E
知力 D
計略 E
政治 C
人望 C
関連年表
— 蜀郡の名族張氏に生まれる
— 程祁・楊汰・楊戯と並んで当代の名士に数えられる
— 威儀風観を認められ累進する
— 尚書となる
249年 馬忠の死後を継ぎ庲降都督・安南将軍となる
— のち閻宇が庲降都督を代わる

略歴

張表、字を伯達といい、蜀郡の人である。父は張粛、劉璋のもとで広漢太守をつとめた人物であり、叔父は、劉備の益州取りを内から手引きし、その兄に密告されて斬られた張松である。 若くして名を知られ、巴西の程祁、巴郡の楊汰、犍為の楊戯とともに、当代の名士として並び称された。『華陽国志』は、張表には威儀風観——人に対する重々しい構えと風采——があったと記している。 累進して尚書に至り、延熙十二年(249年)、庲降都督の馬忠が死去すると、その後を継いで南中の都督となり、安南将軍の号を加えられた。諸葛亮の南征ののち、鄧方・李恢・張翼・馬忠が受け継いできた、異民族の多い南方の統治を引き継いだことになる。 のちに閻宇が代わって南中を統べた。張表の没年も、その後の官歴も伝わらない。

逸話

『益部耆旧雑記』は、張家の兄弟を書き分けている。兄——張表の父にあたる張粛には威儀があり、容貌もはなはだ立派であった。弟の張松は背が低く、節操を取り繕わなかった。張表に伝わったのは、父の側であった。『華陽国志』が張表に与えた威儀風観という評語は、その父に向けられた言葉とほとんど同じものである。名士の売り物が、まず構えと風采であった時代の記述である。張表についてまず書き留められたのも、功績ではなく、その見ばえであった。 『三国志』の楊戯伝は、この四人を字まで添えて名指しで挙げている。楊戯はつねに巴西の程祁(公弘)を四人の首に推し、諸葛亮も程祁を深く器量ありと認めていた。 ところが、その程祁——夷陵の敗走のなかで逃げることを拒んで死んだ程畿の子である——と楊汰については、名が挙がるだけで、その後をたどる記録がほとんど残っていない。官途を伸ばしたのは張表と楊戯の二人で、張表は尚書を経て南方の都督となり、楊戯は『季漢輔臣賛』を書いて蜀の人物を後世に残した。若い日の序列は、残るものの順とは一致しなかった。 張表の仕事ぶりについては、記録がひとつだけ、はっきりした判定を下している。前任の馬忠は、死んだときに南の夷人たちが廟を建てて祀ったほどの人物であった。『華陽国志』は庲降都督の歴代を並べたうえで、馬忠のあとを継いだ張表は当代の名士であり、さらに代わった閻宇は以前から実務の功のある男であった、しかしどちらも馬忠には及ばなかった、と書き留めている。名士であることと、辺境を治めることは、別の能力であった。名望を買われて南中に出され、名望では埋まらない差を残したのである。 弟を売った兄と、売られて斬られた弟。その兄の子が、弟の手引きで成った国の尚書となり、南方の都督として異民族の地を預かっている。益州の土着の名族は、政権が替わっても官界に残り続けた——張表の経歴は、そのことを静かに示している。

評価

張表は、名声と器量をもって知られ、南中を治める重任を担った蜀の名士である。華々しい武功や事績よりも、その人望と、辺境の統治を託されるだけの信頼にこそ、その存在意義があった。 諸葛亮以来、蜀が重視した南方経営を受け継いだ一人として、その名が伝えられている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、蜀の名士・南方の統治者として名が伝わる。 南中を治めた実像は、蜀漢が力を注いだ南方経営を支えた人材の一つとして位置づけられる。
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