かんはん

桓範

字元則 生没年? – 249年 所属魏

曹爽に決起を説くも容れられず散った、魏の「智嚢」

能力値
統率 E
武力 F
知力 B
計略 C
政治 D
人望 D
関連年表
後漢末 沛国に生まれる。曹爽と同郷で、その郷里の長老格
建安末 丞相府に入り、延康年間に羽林左監となる
文帝期 征虜将軍・使持節都督青徐諸軍事に進む
— 徐州刺史・鄒岐と住居を争い、兵を動かそうとして罷免される
— 兗州刺史となるが、母の喪にあたって辞職する
正始年間 曹爽政権で大司農となる。『世要論』を著す
249年正月 高平陵の変。「詔がある」と偽って平昌の城門を開かせ脱出する
249年 司馬懿が「智嚢往けり」と漏らす
249年 天子を奉じて許昌へ移り檄を飛ばすよう、大司農の印を示して献策
249年 曹羲に「天子とともにおりながら、なぜ東市へ行くのか」と説く
249年 曹爽が刀を投げ捨てて降伏し、「犢め」と泣いて嘆く
249年 司蕃の証言により「大臣を誣告した」罪で反坐とされ、誅される

略歴

桓範、字を元則といい、沛国の人である。曹爽と同郷であり、その郷里における長老格であった。 建安の末に丞相府へ入り、延康年間に羽林左監となる。文帝の代には中領軍尚書、さらに征虜将軍・東中郎将・使持節都督青徐諸軍事に進んだ。もっともこの時期、徐州刺史の鄒岐と住居をめぐって争い、節を持ち出して兵を動かそうとしたために罷免されている。のち兗州刺史となったが、母の喪にあたって職を辞した。 曹爽が政権を握ると大司農に任じられた。学識ゆたかで智謀に富み、『世要論』を著している。 正始十年(249年)正月、司馬懿が高平陵の変を起こして洛陽を制圧した。明帝の陵墓に参詣していた曹爽は、都の外に天子とともに取り残される。 このとき桓範は城を脱した。平昌の城門に至ると門はすでに閉じられていたが、門を守っていたのは旧部下の司蕃であった。桓範は手にした板を掲げて「詔がある」と告げ、門を開けさせる。城を出ると振り返って「太傅が謀反した。おまえも私とともに来い」と呼びかけたが、司蕃は徒歩で追いつけず、脇へ避けた。桓範が城を出たと聞いた司馬懿は、ただ一言こう漏らしたという——「智嚢が行ってしまった」。 曹爽のもとに駆けつけた桓範は、決死の策を授けた。天子を奉じて許昌へ移り、檄を飛ばして天下の兵を召し集めよ。中領軍の別営は闕の南に近く、洛陽典農の治所も城外にある。許昌までは一泊で着き、許昌の別庫も使える。憂いは糧食だけだが、大司農の印章は自分が持っている——と。天子を擁するかぎり、大義はなお曹爽の側にあった。 弟の曹羲にはこう説いた。「匹夫が人ひとりを人質に取っただけでも、なお生きようと望むものです。いま卿は天子とともにおられ、天下に号令できる。それをどうして、みずから東市へ行こうとなさるのですか」。 だが曹爽は一夜迷ったあげく、刀を地に投げ捨てて言った——「わしは富家の翁になることを失うまい」。桓範は泣いて嘆じた。「曹子丹(曹真)は立派な人物であったのに、おまえたち兄弟のような者を生んだ。子牛め。どうしておまえたちのせいで、わが一族まで滅ぼされることになるのか」。 はたして桓範も捕らえられた。罪状は、城を出るときに門番へ言い放った一言であった。

逸話

桓範の値打ちを最も端的に示すのは、敵が漏らした一言である。 正始十年(249年)正月、洛陽を制圧した司馬懿のもとに、桓範が城を脱して曹爽のもとへ走ったという報せが届いた。司馬懿はこう言った——「智嚢往けり」。知恵袋が行ってしまった。桓範を「智嚢」と呼んだのは、称えた味方ではなく、最も警戒した敵であった。 城の抜け方そのものも、この人らしい。平昌の城門に着くと、門はすでに閉ざされていた。守っていたのは旧部下の司蕃である。桓範は手にした板を掲げて「詔がある」と告げ、門を開けさせた。そして城外に出た瞬間、振り返って言った——「太傅が謀反した。おまえも私とともに来い」。司蕃は徒歩で追いつけず、道の脇に避けるしかなかった。 曹爽への献策は、具体的であった。天子を奉じて許昌へ移れ。中領軍の別営は闕の南に近く、洛陽典農の治所も城外にある。兵は呼び集められる。許昌までは一泊で着き、許昌の別庫も使える。唯一の憂いは糧食だが、その手配をする大司農の印章は、いまこの身にある——。檄を飛ばせば大義は天子を擁する側にあり、司馬懿は謀反人になる。実現可能な勝ち筋であった。 決断しない曹爽兄弟に、桓範は弟の曹羲へ言葉を向けた。「匹夫が人ひとりを人質に取っただけでも、なお生きようと望むものです。いま卿は天子とともにおられ、天下に号令できる。それをどうして、みずから東市へ行こうとなさるのですか」。 曹爽の答えは、刀を地に投げ捨てることであった。「わしは富家の翁になることを失うまい」。財産家として余生を送れればよい、というのである。桓範は泣いて嘆じた——「曹子丹は立派な人物であったのに、おまえたち兄弟のような者を生んだ。子牛め。どうしておまえたちのせいで、わが一族まで滅ぼされることになるのか」。 なお、この嘆きは後世しばしば「豚犬のごとき子ら」として引かれるが、それは別の言葉との混同である。「豚犬」は曹操が劉表の子らを評した「劉景升の児子は豚犬のごときのみ」から来たもので、桓範が用いたのは「犢」——子牛、すなわち愚鈍な者を指す語であった。 そして桓範の罪状が、この一件の最も苦い部分である。門番の司蕃は後に役所へ自首し、桓範が「太傅が謀反した」と言い放ったことを詳しく述べた。この証言により、桓範は「大臣を誣告した」罪に問われる。誣告は反坐——告発した内容の罪を告発者自身が負う——にあたるとされ、桓範は誅された。 司馬懿を謀反人と呼んだ罪で殺されたのである。その十六年後、司馬懿の孫は魏から帝位を譲り受けて晋を建てた。 ちなみに桓範には、かつて徐州刺史の鄒岐と住居を争い、節を持ち出して兵を動かそうとして罷免された前歴がある。危急の一瞬に即断して城を飛び出す資質と、平時に角を突き合わせる資質とは、同じ気性の裏表であった。

評価

桓範は、危急の一瞬に、状況を的確に見抜いて起死回生の策を示した、まさに「智嚢」の名にふさわしい謀臣であった。もし曹爽がその献策に従っていれば、魏から晋への歴史は、あるいは大きく変わっていたかもしれない。 主の不決断によって、その卓見が空しく散ったところに、乱世における謀臣の悲哀がある。「犢(子牛)め」という嘆きは、有能な者が凡庸な主に仕える不運を痛烈に言い表して、後世に残った。

演義

小説『三国志演義』では、高平陵の変に際し、城を抜け出して曹爽に決起を促す知恵者として描かれる。天子を奉じて司馬懿と戦うよう説くが、曹爽は決断できず降伏する。 「豚犬」と嘆く場面とともに、優れた策が凡庸な主に容れられぬ無念を体現する人物として綴られている。
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