でいこう

禰衡

字正平 生没年173年 – 198年 所属後漢

太鼓を打ち裸で曹操を罵った、傲岸不遜の才人

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 D
政治 E
人望 E
関連年表
173年 平原郡般県に生まれる
— 「大児は孔文挙、小児は楊徳祖、余子は取るに足らぬ」と言う
— 孔融が才を惜しみ、たびたび曹操に推挙する
— 狂病と称して出仕を拒み、曹操を罵る
— 鼓史に任じられ、衆前で裸になって着替える(撃鼓罵曹)
— 曹操「本と衡を辱めんとせしに、衡かえって孤を辱む」
— 営門で杖で地を叩いて罵り、「雀鼠を殺すが如し」と評されて劉表へ送られる
— 劉表の上奏文を破り捨て、即座に書き直して重んじられる
— 劉表も持て余し、短気な黄祖のもとへ回される
— 黄射の宴で『鸚鵡賦』を一字も直さずに書き上げる
198年 蒙衝船上で黄祖を「死にぞこない」と罵り、斬られる(二十六歳)
— 黄射は救いに間に合わず、黄祖も後悔して厚く葬る

略歴

禰衡、字を正平といい、平原郡般県の人である。熹平二年(173年)の生まれ。 『後漢書』はその人物を「若くして才弁あり、而して気を尚んで剛傲、好んで時に矯り物を慢る」と記す。鋭い才と弁舌を持ちながら、気位が高く傲慢で、好んで時勢に逆らい人を侮った、という評である。 当代の名士をことごとく歯牙にもかけなかったが、ただ二人だけは認めていた。魯国の孔融と弘農の楊修である。その言い方がすでに尋常でない——「大きい子は孔文挙、小さい子は楊徳祖。それ以外の者は取るに足らぬ」。二十歳そこそこの若者が、二十以上も年長の孔融を「大きい子」と呼んだのである。 その孔融が禰衡の才を深く愛し、たびたび曹操に推挙した。だが禰衡はもともと曹操を軽んじ嫌っており、狂病と称して出仕を拒み、そのうえ放言して罵った。曹操は忿りを抱いたが、その才名を惜しんで殺そうとはしなかった。 曹操は、禰衡が鼓を善くすると聞いて鼓史に任じた。賓客を大いに集めた席で、鼓史たちは順に古い衣を脱ぎ、岑牟と単絞という鼓吏の装束に着替えさせられる。禰衡の番が来た。禰衡は「漁陽参撾」の曲を打ちながら進み出た。その容態は異様で、音は悲壮をきわめ、聴く者は慷慨した。曹操の前まで進んで止まると、役人が咎めた——「鼓史はなぜ着替えぬのか」。禰衡は「はい」と答え、その場で褌を解き、残りの衣を脱ぎ、裸で立った。それからゆっくり装束を着け、座り直して鼓を打った。節奏は殊に妙であったという。曹操は笑って言った——「もともと禰衡を辱めようとしたのに、禰衡がかえって孤を辱めた」。 その後、孔融の仲介で曹操のもとへ行くと約束したものの、禰衡は粗末な衣で営門に座り、杖で地を叩いて大いに罵った。曹操は孔融にこう言っている——「禰衡の小僧め。孤がこれを殺すのは雀や鼠を殺すのと同じだ。だがこの者には素より虚名があり、遠近の者は孤が容れられぬと言うだろう」。そして荊州の劉表のもとへ送りつけた。 劉表と荊州の士大夫は、その才名に服して賓客の礼で遇した。だが禰衡はやがて劉表をも侮慢する。劉表は恥じて容れきれず、江夏太守の黄祖が短気であることを承知のうえで、そちらへ送った。曹操と同じ手口であった。 建安三年(198年)、蒙衝船上の宴席で、禰衡の言葉が不遜をきわめた。黄祖が咎めると、禰衡はじっと見返して言い放った——「この死にぞこないめ、何を言うか」。黄祖は激昂して引き出させ、禰衡はなお罵り続けた。ついに斬られた。二十六歳であった。

逸話

禰衡の生涯は、二人の権力者が同じ手口を使った記録でもある。 曹操は、禰衡を殺せば狭量と謗られると考え、「孤がこれを殺すのは雀や鼠を殺すのと同じだ」と言いながら、荊州の劉表へ送りつけた。その劉表もやがて持て余し、江夏太守の黄祖が短気であることを承知のうえで、そちらへ回した。殺さずに、殺してくれそうな相手へ渡す——禰衡は二度、そうやって手放された。 「撃鼓罵曹」の場面で曹操が漏らした言葉は、敗北の自認である。「本と衡を辱めんと欲するに、衡かえって孤を辱む」。恥をかかせるために鼓打ちの末席に落としたのに、裸になって着替えるという一手で、恥をかいたのは自分のほうだった。しかも禰衡が打った「漁陽参撾」の音は悲壮をきわめ、聴いた者はみな慷慨したという。狂態だけではなく、演奏そのものが客を打ったのである。 この人が単なる狂人でなかったことは、荊州での一件がよく示している。劉表が文人たちを集めて上奏文を起草し、めいめい才を尽くした。外出していた禰衡が帰ってそれを見ると、読み終えもしないうちに破り捨てて地に投げた。劉表が憮然とするなか、禰衡は筆と紙を求め、たちまち書き上げた。その文辞は見事で、劉表は大いに喜び、かえって重用したという。才は本物であった。 黄祖のもとでも同じであった。禰衡が作った文書について、黄祖はその手を取ってこう言っている——「処士よ、これはまさに祖の意を得ている。祖の腹の中で言いたかったことそのままだ」。黄祖の長子・黄射は、とりわけ禰衡と親しかった。 その黄射の宴席で生まれたのが『鸚鵡賦』である。鸚鵡を献じた者があり、黄射が杯を挙げて「願わくは先生これを賦して、客を娯しませてほしい」と求めた。禰衡は筆を取って書き上げ、一字も加えず削らなかったという。異郷に捕らえられ、籠のなかで才を弄ばれる鳥に、禰衡は自分を重ねた。この賦は『文選』に収められて今日まで伝わり、長江の中洲は「鸚鵡洲」と呼ばれるようになった。崔顥が黄鶴楼で「芳草萋萋たり鸚鵡洲」と詠んだ、あの地名である。 最期は、よく待遇してくれていた主の前で訪れた。蒙衝船上の宴で禰衡の言が不遜をきわめ、黄祖が咎めると、禰衡はじっと見返して言った——「この死にぞこないめ、何を言うか」。黄祖は激昂して引き出させ、それでも禰衡は罵り続けた。斬られたと聞いた黄射は、履も履かずに走って救いに来たが、間に合わなかった。黄祖もまた後悔して、厚く棺に納めたという。 才を認め、文を褒め、息子が友としていた相手を、公衆の前での一言が殺させた。二十六歳。その文章の多くは失われた。

評価

禰衡は、まれにみる才を持ちながら、その傲慢と毒舌によって身を滅ぼした、破滅型の才人である。権勢を恐れず、曹操をも辱めたその奔放さは痛快でもあるが、人と折り合う知恵を欠いたために、才を生かすことなく若くして散った。 才あって徳と分別を欠くことの危うさを、その生涯は鮮烈に示している。

演義

小説『三国志演義』では、「撃鼓罵曹(鼓を撃ちて曹を罵る)」の逸話が名場面として描かれる。曹操に辱めを与えようとされた禰衡が、逆に裸となって曹操を辱め返す痛快な場面である。 たらい回しにされた末、黄祖に斬られるまでが、才におぼれた狂士の物語として綴られている。
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