かんねい

管寧

字幼安 生没年158年 – 241年 所属後漢

生涯仕えず清節を貫いた、割席の高士

能力値
統率 F
武力 F
知力 C
計略 F
政治 E
人望 B
関連年表
158年 北海郡朱虚県に生まれる。斉の管仲の後裔と伝わる
173年 十六歳で父を失い、親戚の香典をすべて断って自力で葬る
— 平原の華歆・同県の邴原と友となり、ともに遊学する
— 『世説新語』が伝える「割席」の一件(金塊と高官の行列)
190年代 乱を避け、邴原・王烈らとともに遼東へ渡る
— 公孫度には経典のみを語り、世事に触れない
— 田を荒らした隣家の牛を、持ち主以上に丁寧に世話する
— 井戸の争いを、黙って器を置くことで収める
223年 司徒となった華歆の推挙を受け、三十七年ののち帰郷する
226年以降 太尉の華歆が位を辞して管寧に譲ろうとするが、帝は許さず
青龍年間 陶丘一・孟観・孫邕・王基が推挙するが、病と称して応じない
241年 同じ四人が再度上奏したそのとき没する(八十四歳)

略歴

管寧、字を幼安といい、青州北海郡朱虚県の人である。永寿四年(158年)の生まれ。斉の名相・管仲の後裔と伝えられる。 十六歳で父を失った。孤児で貧しいのを憐れんだ親戚たちはこぞって香典を贈ったが、管寧はその一つも受けず、自分の財力の範囲だけで葬儀を済ませたという。身の丈八尺、美しい髭と眉を備えていた。平原の華歆、同県の邴原と友となり、ともに他郷へ遊学した。 この時期の華歆との一件が、後世に名高い「割席」の故事である(ただし伝えるのは『世説新語』であって、正史『三国志』には見えない)。二人で庭の菜を鋤いていると、地中から金の片が出た。管寧は鋤を振るって瓦石と同じように打ち捨てたが、華歆は拾い上げてから投げ捨てた。またあるとき同じ敷物に座って読書していると、高官の車が門前を通った。管寧は読み続けたが、華歆は書を置いて見物に出た。管寧は敷物を断ち切って座を分け、「君はもはやわが友ではない」と言い放ったという。 天下が乱れると、公孫度の令が海の外にまで行われていると聞いて、管寧は邴原・王烈らとともに遼東へ渡った。公孫度は客館を空けて迎えたが、管寧は山あいに庵を結んだ。避難民の多くが郡の南に住むなか、あえて北に居を定めたのは、ここに骨を埋める気はないという意思表示であった。公孫度に会うときも、語るのは経典のみで、世事には一切触れなかった。「潜龍は顕れぬことを徳とする。時でないのに物を言えば、みな禍を招く道だ」——そう邴原に語っている。 遼東での三十七年間、管寧は詩書を講じ、祭器を並べ、威儀を整え、礼讓を明らかにした。学ぶ意志のない者には会わなかった。公孫度はその賢を安んじ、民はその徳に感化されたと正史は記す。 黄初四年(223年)、詔によって公卿が「独行の君子」を推挙することになり、司徒の華歆が管寧を薦めた。召しを受けた管寧は、家族を連れて海を渡って故郷へ帰る。公孫恭は南郊まで送り、衣服や品々を贈ったという。 だが管寧は官に就かなかった。明帝が立つと、太尉となった華歆は病と称して位を辞し、それを管寧に譲ろうとしたが、帝は許さなかった。青龍年間には、太僕の陶丘一・衛尉の孟観・侍中の孫邕・中書侍郎の王基がそろって管寧を推挙し、詔書が特に楽安太守へ下されて、礼をもって送り届けるよう命じられた。それでも管寧は病が重いと称して、ついに動かなかった。 正始二年(241年)、同じ四人が改めて推薦の上奏を出したちょうどそのとき、管寧は世を去った。八十四歳であった。

逸話

管寧の生き方を最も鮮やかに語るのは、絶交した相手のその後である。 「割席」の故事で、管寧は華歆に「君はもはやわが友ではない」と言い放った。金塊を一度手に取ったこと、高官の行列を見に出たこと——それだけで座を断ち切ったのである。 その華歆は、のちに魏の司徒・太尉に上った。俗を捨てた管寧と、顕位を極めた華歆。対照的な二人、という図式で語られることが多い。だが史実はそこで終わらない。 黄初四年(223年)、詔によって「独行の君子」を推挙することになったとき、管寧を薦めたのは、その華歆であった。遼東に三十七年も隠れていた旧友の名を、司徒となった華歆が挙げたのである。さらに明帝が立って太尉となると、華歆は病と称して位を辞し、それを管寧に譲ろうとした。帝は許さなかった。 敷物を断ち切られた側が、三十年以上を経て、断ち切った相手を推し、自分の位まで譲ろうとした。割席の逸話は華歆の俗を示す話として引かれてきたが、この後日談と合わせて読むと、二人の関係はもっと複雑なものに見えてくる。 遼東での三十七年には、人を変えた逸話が残っている。 隣家の牛が管寧の田を荒らしたことがあった。管寧はその牛を牽いていくと、涼しい場所で放牧し、自ら水や飼料をやって、本来の持ち主以上に丁寧に世話をした。牛を取り戻しに来た主は、大いに恥じ入って、まるで刑罰を受けたかのようであったという。 村の井戸でも同じことをしている。水を汲む者が男女入り混じり、順番を争って喧嘩になることが続いた。管寧はこれを憂えて、多くの器を買い込み、井戸の傍に分け置いて、あらかじめ水を汲んで待たせておいた。そして誰がしたことか知らせなかった。器を見つけた村人は不思議に思い、やがて管寧の仕業と知って、互いを責め合い、二度と争わなくなったという。 叱らず、裁かず、黙って先に手を打つ。公孫度の政権が法と威で押さえた土地で、この人は別の方法で人を動かした。 辞退の生涯も徹底していた。文帝に召され、華歆に位を譲られ、青龍年間には陶丘一・孟観・孫邕・王基の四人がそろって推挙し、詔書が特に地元の太守へ下って礼をもって送り出せと命じられた。それでも管寧は病が重いと称して動かなかった。 そして正始二年(241年)、同じ四人が改めて推薦の上奏を出したちょうどそのときに、管寧は世を去った。八十四歳。推薦状と訃報がすれ違う形で、この人は最後まで官に就かずに終わった。 陳寿は『三国志』でこう評している——管寧は淵雅高尚にして、確然として抜かれなかった。

評価

管寧は、富貴にも権勢にもなびかず、生涯を清節に生きた隠者の鑑である。「割席」の故事に示される、心の在り方への厳しさと澄んだ眼は、俗塵にまみれぬ高士の理想として、長く語り継がれてきた。 もっとも、席を断ち切られた華歆は、のちに司徒として管寧を推挙し、太尉となるや自らの位を譲ろうとした。対照的な二人という図式だけでは収まらない関係が、その後に続いている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、清節の高士としてその名が知られる。 華歆との「割席」の逸話は、二人のその後の生き方の違いを予感させるものとして、しばしば引き合いに出される。
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