かいえつ

蒯越

異度 生没年? – 214年 所属後漢

劉表の荊州平定を支え、のち曹操が渇望した謀臣

能力値
統率 E
武力 E
知力 B
計略 B
政治 C
人望 C
関連年表
生年不詳 荊州襄陽郡中廬県の名族・蒯氏に生まれる
180年代末 大将軍・何進に招かれ東曹掾となる
189年頃 何進に宦官の誅殺を説くも容れられず、汝陽令として都を去る
190年 荊州へ赴任した劉表に、兄・蒯良や蔡瑁とともに計を問われる
190年 宗賊の首領五十五人を誘い出して誅する策を献じ、荊州を平定する
190年代 章陵太守となり、樊亭侯に封じられる
208年 曹操の南下に際し、傅巽らとともに劉琮へ降伏を勧める
208年 曹操に侯として封じられ、光禄勲に任じられる
214年 没する

略歴

蒯越、字を異度といい、荊州襄陽郡中廬県の人である。兄に蒯良がいる。中廬の蒯氏は荊州に聞こえた名族で、蒯越は若くして深謀の士として知られた。 はじめ大将軍・何進に招かれて東曹掾となった。このとき蒯越は、宦官どもを誅すべきことを説いたが、何進は決断できずこれを用いなかった。蒯越は何進が必ず身を滅ぼすと見て取り、自ら願い出て汝陽の令として都を離れた。はたして何進は宦官に討たれ、洛陽は董卓の兵に踏みにじられることになる。 初平元年(190年)、劉表が単身、馬を駆って荊州へ赴任した。当時の荊州は、宗賊と呼ばれる土豪の武装勢力が各地に割拠し、袁術が南陽に居座って、州府の命令はどこにも届かぬ有様であった。劉表は宜城に入ると、蒯越・蒯良の兄弟と蔡瑁を招いて計を問うた。 蒯越はこう献じた——「治平の世は仁義を先とし、治乱の世は権謀を先とします。兵は多きにあるのではなく、人を得るにあります。宗賊の頭目どもは貪欲で暴虐、下の者から憎まれております。利をもって誘い出せば、必ず衆を率いて参りましょう。そこで無道の者を誅し、残る者は撫して用いればよいのです」。劉表は「善し」としてこれを容れた。蒯越が人を遣って誘い出した宗賊の首領は五十五人。ことごとく斬られると、頭目を失った衆はたちまち帰服した。こうして劉表は江南の地をわがものとし、荊州一円に号令する基を得たのである。まさに蒯越の謀が、劉表の荊州支配を築いた。 功により蒯越は章陵太守となり、樊亭侯に封じられ、以後も荊州の重鎮として重んじられた。 建安十三年(208年)、曹操が大軍を率いて南下すると、劉表の後を継いだばかりの劉琮は去就に迷った。蒯越は傅巽らとともに降伏を勧め、荊州は戦わずして曹操の手に落ちた。曹操は蒯越ら十五人を侯に封じ、蒯越自身は光禄勲に任じて厚く遇した。建安十九年(214年)に世を去った。

逸話

建安十三年(208年)、労せずして荊州を得た曹操は、その喜びを荀彧への書にこう記している。「荊州を得たるを喜ばず、蒯異度を得たるを喜ぶのみ」——広大な土地を手に入れたことよりも、蒯越という一人の謀臣を得たことのほうが嬉しい、というのである。乱世の英雄が人材に向けた渇望を、これほど端的に示した言葉も少ない。 何進のもとにあったころ、蒯越は宦官を誅すべきことを説いた。容れられぬと見るや、この人はいずれ身を滅ぼすと見切って、自ら願い出て汝陽の令となり都を去っている。まもなく何進は宦官の手にかかって死んだ。乱の兆しを読み、退くべき時に退くその眼力は、のちに荊州の帰趨を見きわめた判断とひとつながりのものであった。 劉表が兄弟に計を問うたとき、兄・蒯良は仁義を、弟・蒯越は権謀を説いた。劉表は兄の説を遠大な正論として尊びながら、眼前の宗賊を除くには弟の策を採った。正論を説く兄と、実務を担う弟——蒯氏兄弟は、そのどちらをも欠かさぬことで劉表の荊州を成り立たせたのである。

評価

蒯越は、荊州という要地の帰趨を左右した謀臣であり、その献策の的確さは劉表・曹操の双方に高く評価された。宗賊平定に見られる権謀は、乱世の実務家としての手腕を余すところなく示している。 派手な武功ではなく、大局を見て安を選ぶ判断力にこそ、その真価があった。

演義

小説『三国志演義』でも、劉表配下の智謀の臣として登場する。荊州平定の献策や、曹操南下に際して劉琮に降伏を勧める場面などで、蔡瑁らとともに荊州の帰趨に関わる。 正史ほど大きくは描かれないが、荊州の内情を動かす一人として顔を出す。