しょうしゅう

譙周

允南 生没年199年 – 270年 所属

北伐を諫め蜀の降伏を導いた大学者、賛否を二分する碩儒

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 D
政治 C
人望 D
関連年表
199年頃 巴西郡西充国県に生まれる
234年 諸葛亮の喪に奔り、勧学従事に取り立てられる
240年代 典学従事として益州の学問を統べる
250年代 『仇国論』を著し、姜維の北伐を諫める
263年 劉禅に魏への降伏を進言する
263年 蜀漢が滅亡し、魏から陽城亭侯に封じられる
260年代 門下から陳寿・羅憲・文立らが育つ
270年頃 晋に仕え、この頃洛陽で没する

略歴

譙周、字を允南といい、巴西郡西充国県の人である。父は尚書を学んだ学者であったが、周は幼くして父を失った。家は貧しかったが学問を好み、寝食を忘れて書に親しんで六経に通じ、とりわけ天文・図讖の術に明るい当代屈指の碩儒となった。身の丈は八尺に及んだが、飾り気がなく、弁舌の才には乏しかった。 建興十二年(234年)、諸葛亮が五丈原に没すると、周はその報を聞くや否や喪に奔り、朝廷が使者の往来を禁じるより先に発ったため、五丈原まで駆けつけられた唯一の人であったという。諸葛亮はかねて周の才を認めており、周は勧学従事に取り立てられた。以後、蔣琬・費禕のもとで典学従事となって益州の学問を統べ、中散大夫・光禄大夫などを歴任した。実務の吏としてよりも、学問と諫言をもって朝廷に仕えた。 後主・劉禅が遊観や音楽にふけると、周はしばしば上疏してこれを諫めた。大将軍・姜維がたびたび北伐を繰り返して国力を疲弊させると、周はこれを深く憂え、『仇国論』を著した。そのなかで、小国が大国に無理な戦を挑むことの愚を寓話に託して説き、いたずらに武を極めて民を疲れさせれば、やがて土崩瓦解して救いようがなくなると論じ、まず民を休ませて力を養うべきことを主張した。 炎興元年(263年)、鄧艾が成都に迫ると、劉禅は群臣を集めて対策を議した。呉へ亡命すべしという者、南方の南中へ逃れて再起を図るべしという者があったが、周はいずれも先の見込みなしとして退けた。呉もいずれ魏に併呑される小国にすぎず、二度も臣従の屈辱を重ねるより、いま魏に降ってこそ社稷と民を保てると、道理を尽くして強く進言した。もし魏が劉禅を諸侯として遇さなければ、自分が都へ上って古の礼をもって談判すると言い切ったという。劉禅はこれに従い、蜀漢は戦わずして滅んだ。この功により、周は魏から陽城亭侯に封じられた。 蜀の滅亡後は魏、ついで晋に仕えた。晋の召しを受けて洛陽へ上ったが、病のため騎都尉・散騎常侍の任には就けず、泰始六年(270年)ごろに世を去った。その門下からは、のちに『三国志』を著す陳寿をはじめ、羅憲・文立ら蜀を代表する人材が輩出した。

逸話

周は素朴で、宮廷の礼儀作法にも頓着せず、弁論の才もなかった。その飾らぬ挙措がしばしば人の笑いを誘ったが、後主はあえてそれを咎めなかったと伝わる。 天文と図讖に通じた周は、予言でも名高かった。世に伝わる童謡や瑞祥を解いてしばしば的中させ、蜀の行く末についても、劉備・劉禅父子の名になぞらえて説いたという。すなわち「備」はそなえる、「禅」はゆずるの意であり、劉氏はやがて国を築いて他へ譲り渡す定めにあるのだ、と。降伏の進言は、こうした彼の宿命観とも通じていた。 その学問は、乱世にあっても実証を重んじる堅実なもので、弟子の陳寿はこれを受け継ぎ、後漢末から三国の歴史を冷静な筆で記した正史『三国志』を完成させた。

評価

譙周に対する評価は、古来大きく分かれる。降伏を主導したことで、忠義を欠き社稷を売った臣とする厳しい批判がある一方、無益な抗戦を避けて蜀の民を戦禍から救い、宗廟を全うさせた現実的な見識を評価する声もある。 いずれにせよ、乱世に学問と諫言を貫いた碩儒であり、その学統は弟子・陳寿へと受け継がれた。

演義

小説『三国志演義』では、姜維の北伐に反対する消極論者として描かれ、しばしば主戦派と対立する。 蜀の末期、鄧艾の侵攻に際して劉禅に降伏を勧める場面が印象的で、蜀漢の幕引きを促す役回りとして登場する。