とうがい

鄧艾

士載 生没年197年 – 264年 所属

内政と兵略を兼ね備え、天険を踏破して蜀を滅ぼした名将

能力値
統率 B
武力 C
知力 B
計略 B
政治 B
人望 D
関連年表
197年 義陽郡棘陽県に生まれる
208年頃 曹操の荊州平定にともない屯田民となる
240年頃 司馬懿に才を認められ尚書郎となる
243年頃 淮南・淮北の屯田を建議する(『済河論』)
255年 洮西の敗戦後、陳泰とともに狄道の囲みを救う
256年 段谷の戦いで姜維を大破し鎮西将軍となる
262年 侯和で姜維を破り沓中へ退ける
263年 陰平の険を越え、綿竹で諸葛瞻を破り蜀を平定、太尉となる
264年 讒言により檻車で送られ、鍾会の乱の混乱の中で殺される

略歴

鄧艾、字を士載といい、荊州義陽郡棘陽県の人である。幼くして父を失い、母とともに貧しい暮らしを送った。建安十三年(208年)、曹操が荊州を平定すると、その地の民の多くは各地の屯田へと移され、鄧艾もまた汝南の屯田に配された一少年にすぎなかった。 読書を好み学問に志したが、生まれつき吃音があったために言葉を要する官の要職には就けず、長く稲田を見回る下級の役人(稲田守叢草吏)にとどまった。それでも田を巡るたびに地形を測り、「ここに陣を布けば」「ここに兵糧を積めば」と一人つぶやいては、人々に笑われたという。 はじめは範と名のり字を士則といったが、同郡に同名の者があったため、名を艾、字を士載と改めた。この改名にすでに、身を立てんとする志がにじんでいる。二十余年を下役として過ごしたのち、上計吏(郡の会計を都に報告する役)として都に上ったことが、彼の生涯を一変させる転機となった。 上計吏として都に上ったとき、太尉の司馬懿は鄧艾の非凡な見識を見抜き、掾に取り立て、まもなく尚書郎に昇らせた。 当時、魏は呉との長い対峙を控え、東南方面の兵站が課題であった。命を受けて陳・項から寿春にかけての淮水一帯を巡視した鄧艾は、運河を開いて水運を通じ、大規模な軍屯を営むべきことを説いた。これが名高い『済河論』である。田は良いが水が乏しく土地の利を尽くせぬゆえ、河渠を開いて水を引き、大いに軍糧を蓄えて漕運の道を通ずべし、と説いたのである。 司馬懿はこの策を全面的に採用した。淮北・淮南に屯を連ねて数万の兵が耕しつつ守りを固め、運河は許都から寿春まで軍船を通した。以後、東南に事あれば大軍が船で一気に淮水を下れるようになり、魏の対呉戦の兵站と国力は飛躍的に強化された。一介の屯田官の献策が、国家の大計となったのである。 やがて鄧艾は南安太守などを歴任し、西方の対蜀戦線に転じる。蜀の姜維がたびたび北伐を仕掛けると、鄧艾は雍州刺史の郭淮や征西将軍の陳泰らと連携し、あるいは自ら軍を率いてこれを防いだ。 正元二年(255年)、姜維が洮西で雍州刺史の王経を大破すると、鄧艾は陳泰とともに狄道の囲みを解き、崩れかけた戦線を支えた。 翌甘露元年(256年)、鄧艾は段谷において姜維の大軍を迎え撃ち、これを完膚なきまでに打ち破った。この一戦で蜀軍は大損害を被り、姜維は責を負って自ら位を降した。鄧艾の名は大いに高まり、鎮西将軍・都督隴右諸軍事に進んで西方の軍事を統べることとなった。景元三年(262年)にも侯和で姜維を破り、これを沓中へ退けている。地の利を読むことにかけて、鄧艾に並ぶ者はなかった。 景元四年(263年)、司馬昭はついに蜀征伐を発令する。鍾会が十数万の主力を率いて漢中から剣閣に迫り、鄧艾は三万余をもって沓中の姜維を牽制した。しかし姜維が剣閣の天険にこもって鍾会の大軍を食い止めると、戦線は膠着し、兵糧の続かぬ鍾会は撤退すら考えはじめた。 このとき鄧艾は、人跡絶えた陰平の険路七百里を踏破して一挙に成都の喉元を衝く、という乾坤一擲の奇策を献じ、自らこれを実行した。山を穿って道を通し、谷には桟道の橋を架け、糧食は尽きかけ、幾度も進退きわまった。断崖絶壁に至っては、鄧艾みずから毛氈に身をくるんで転がり落ち、将兵も木や崖にすがって一列に連なり、命がけで谷を越えたという。 険を越えた鄧艾はまず江油を降し、綿竹で迎え撃った諸葛亮の子・諸葛瞻とその子諸葛尚を討ち取った。守りの要を失った成都に、もはや防ぐ術はなかった。後主劉禅はついに降伏し、四十余年続いた蜀漢はここに滅んだ。誰も予期しえぬ間道からの電撃によって大国を平定したこの一挙は、古来まれに見る奇功として名高い。鄧艾はこの大功により太尉に任じられた。 だが、栄光は長くは続かなかった。成都を制した鄧艾は、劉禅を驃騎将軍に封じ、蜀の官人を魏の官に任じるなど、朝廷の裁可を待たずに独断で事を進めた。辺地の実情に即した処置ではあったが、司馬昭はこれを専断と疑い、いさめの書を送っている。 かねて功を独占せんとする鍾会は、この隙を突いた。監軍の衛瓘と謀り、鄧艾の上奏文を偽って書き改め、「鄧艾に謀反の心あり」と讒言したのである。司馬昭の命により、鄧艾は父子ともども檻車に乗せられ、都へ護送されることとなった。 ところが鍾会自身が成都で反乱を起こして殺されると、都合の悪い鄧艾を生かしておけぬ衛瓘は、追手として田続を放った。綿竹の西で檻車から解き放たれたばかりの鄧艾は、その子鄧忠とともに斬られた。享年六十八。一介の屯田官から身を起こして大国を平定した名将の、あまりに惨い最期であった。のちに晋の世となって段灼らが冤罪を訴え、泰始年間に至って名誉は回復され、孫の鄧朗が郎中に取り立てられた。

逸話

鄧艾には吃音があり、自らを言うのに「艾艾(がい、がい)」と繰り返す癖があった。あるとき司馬昭が戯れて「卿は艾艾と申すが、いったい艾は幾人おるのか」と問うと、鄧艾は即座に「『鳳よ、鳳よ』と申しても、鳳はただ一羽きりでございます」と返したという。この機知に富んだ応答は、吃音を形容する成語「期期艾艾」の由来の一つとして語り継がれた。 また、高い山や大きな沢を見るたびに立ち止まっては、「ここは陣を布くによい」「ここに糧を積めば」と地形を測って指図し、人々に笑われたという逸話も伝わる。だが、この地を読む眼こそが、のちに陰平の険を越えて蜀を滅ぼす離れ業を可能にした。農事と兵略の双方に通じ、机上の空論を語らぬ生粋の実務家——それが鄧艾という将であった。

評価

陳寿は鄧艾を、寒門から身を起こし天下の壮図を胸に抱いてついにこれを成し遂げた人物としながらも、功成りて驕り、身を全うするの慎みを欠いたことを惜しんだ。 屯田によって国を富ませ、正面から姜維を退け、間道を衝いて大国を一挙に平定した——その功績はまさに絶大である。しかし、辺地にあって独断専行に走り、讒言に対する備えを怠ったことが、その身を滅ぼした。才略において非の打ちどころのない名将でありながら、政治の機微に疎かったがゆえの悲劇として、後世長く惜しまれている。

演義

小説『三国志演義』では、姜維の終生の好敵手として登場する。祁山や段谷でたがいに知略を尽くして競い合い、物語後半の白眉というべき知将同士の対決を演じる。 とりわけ蜀征伐における陰平踏破の決死行は名高く、自ら身を毛氈に包んで断崖を転がり落ちる場面が劇的に描かれる。綿竹に諸葛瞻を破って成都を落とし、蜀を滅ぼす最大の殊勲者として大活躍する。 しかし功に驕って鍾会と反目し、その讒言によって捕らえられ、鍾会の乱の混乱のさなか、衛瓘の放った田続の手にかかって父子ともども討たれる。智略に秀でながら身の処し方を誤った将の悲劇として、その最期は深い余韻を残す。