しょうかい

鍾会

士季 生没年225年 – 264年 所属

才気煥発にして野心を秘めた智謀の士、蜀を滅ぼし自ら乱に散る

能力値
統率 C
武力 D
知力 B
計略 B
政治 C
人望 D
関連年表
225年 太傅・鍾繇の末子として生まれる
250年頃 秘書郎・尚書郎を経て司馬氏の機密に参画する
255年 毌丘倹の乱で司馬師に従い、権力の継承を助ける
258年 諸葛誕の乱の平定に智謀を尽くし「子房」と称される
263年 蜀征伐の主将として漢中を制圧する
263年 剣閣で姜維と対峙、鄧艾の成功で蜀が降る
263年 成都平定後、鄧艾を讒言して陥れる
264年 姜維と結んで挙兵、乱中に斬られる

略歴

鍾会、字を士季といい、豫州潁川郡長社県の人である。魏の重臣にして楷書の祖と仰がれた太傅・鍾繇の末子として生まれた。母は張氏(張昌蒲)といい、鍾会はのちに自ら母の伝を書き記すほど、その厳格にして情け深い薫陶を深く敬った。 幼くして聡明ぬきんで、四歳で『孝経』を、七歳で『論語』を、八歳で『詩経』をと、年ごとに経書を修めたと伝わる。わずか五歳のとき、父に伴われて名臣・蔣済に見えると、蔣済はその眼光を見て「これは尋常の子ではない」と驚嘆したという。弁論に長け、文才ゆたかで、若くしてその名は都に鳴り響いた。 成人した鍾会は秘書郎・尚書郎・中書侍郎などを歴任し、やがて司馬師・司馬昭兄弟に深く信任されて、その帷幕に参じる謀臣となった。 正元二年(255年)、毌丘倹・文欽が淮南に挙兵すると、鍾会は司馬師に従って東征し、機密に参画して献策した。この遠征の途上で司馬師が急死するという危局に際しては、傅嘏とともに機略をめぐらして軍を無事に都へ返し、権力が滞りなく弟の司馬昭へ移るよう取り計らった。この働きは、司馬氏の天下取りにとって決定的な意味を持った。 続く甘露二年(257年)、諸葛誕が寿春に叛くと(淮南三叛)、鍾会は司馬昭の幕下で数々の計略を献じ、離間や偽報を駆使して乱の平定に大きく寄与した。人々はその智謀を、漢の高祖を天下人たらしめた張良になぞらえ、「今の子房」と称したという。 景元四年(263年)、司馬昭が蜀征伐を決すると、鍾会は鎮西将軍・仮節・都督関中に任じられ、十数万の主力を率いる総大将となった。 鍾会は軍を斜谷・駱谷・子午谷の三道に分けて漢中へ攻め入り、諸城を抜いて要害陽安関を落とし、漢中一帯を制圧した。さらに南下して剣閣に迫ったが、蜀の大将軍姜維が剣閣の天険にこもって道を塞いだため、鍾会の大軍はここで進退きわまる。険しい山道に兵糧の輸送は滞り、鍾会はついに撤退を議しはじめた。 その窮地を救ったのが、別働の鄧艾であった。鄧艾が陰平の険を越えて成都を落とし、蜀を滅ぼしたのである。剣閣の攻略にこそ手こずったが、蜀征伐という大事業の総帥として、鍾会もまた歴史にその名を刻んだ。 蜀が滅ぶと、鍾会の胸中には抑えがたい野心が兆した。先に降っていた蜀の名将姜維とひそかに親交を結び、一方で功を独占せんとして「鄧艾に謀反の心あり」と讒言し、鄧艾の上奏文まで偽って書き改め、これを檻車で都へ送らせて成都を掌握した。 十数万の大軍と蜀の沃土を一手に握った鍾会は、ついに自立・挙兵をもくろむ。滅びた蜀の再興を狙う姜維は、この鍾会の野望を巧みに煽り、彼をそそのかして魏の諸将を除かせ、しかるのちに鍾会をも討って劉禅を復位させんとしていたとも伝わる。 景元五年(264年)正月、鍾会は成都に魏の将たちを集め、郭太后の遺詔と称して司馬昭討伐の兵を挙げようとし、従わぬ将を城中に監禁した。だが、司馬昭がすでに賈充を斜谷に、みずからは長安に軍を進めていたことを知って、鍾会は己の企てが見抜かれていたことを悟る。計画はまもなく漏れ、監禁を恐れた魏の将兵が反乱を起こすと、鍾会は姜維ともども乱戦の中で斬り殺された。享年四十。

逸話

鍾会は文事・弁論・兵略のいずれにも通じた当代随一の才人であったが、その才を鼻にかけ、人を軽んじるところがあった。 若き日、名高い文人嵇康を訪ねたときのこと。鍾会が大勢を連れて訪れても、鍛冶に興じる嵇康は手を止めず、ついに一言も交わさなかった。立ち去ろうとする鍾会に嵇康が「何を聞いて来たり、何を見て去るのか」と問うと、鍾会は「聞くべきを聞いて来たり、見るべきを見て去るのみ」と返して立ち去った。これを深く恨んだ鍾会は、のちに嵇康を讒言し、その刑死の一因をつくったといわれる。 また、鄧艾を陥れる際には、鄧艾の筆跡をまねて上奏文を書き改めたと伝わり、その細工の巧みさは、かえって彼の危うい才知を物語っている。

評価

鍾会は、比類なき才知を身にまといながら、それを野心へと走らせて身を滅ぼした人物の典型として語られる。名門に生まれ、賢母の薫陶を受け、若くして「今の張良」と謳われながら、才におごって主君を軽んじた末路は、あまりにあっけない。 司馬昭は早くから鍾会の才を認めると同時に、その野心を鋭く見抜いており、蜀征伐に際しても万全の備えを怠らなかった。「才有りて徳無き者はかえって身を危うくする」——鍾会の生涯は、後世この戒めの筆頭として繰り返し引かれることとなった。

演義

小説『三国志演義』では、鄧艾と並ぶ蜀征伐の両将として登場する。剣閣で姜維と対峙してたがいに知略を競い、才気煥発な智将として描かれる。 成都平定ののちは鄧艾と功を争い、讒言によってこれを陥れる。やがて姜維の言葉巧みな誘いに乗せられて蜀の地に反乱を起こすが、計は破れ、姜維・鄧艾とともに非業の最期を遂げる。才に恃んで身を滅ぼす野心家の悲劇として、その姿は物語終盤に鮮烈な印象を残す。