しょうよう

鍾繇

元常 成侯 生没年151年 – 230年 所属

関中を鎮めた魏の柱石にして、楷書の祖と仰がれた名筆

能力値
統率 D
武力 E
知力 B
計略 C
政治 B
人望 B
関連年表
151年 潁川郡長社県に生まれる
190年頃 廷尉正・黄門侍郎を歴任する
195年 献帝の長安脱出を助ける
196年頃 司隸校尉として関中の鎮撫を委ねられる
200年 関中を鎮撫し、官渡の曹操に馬を送る
202年頃 郭援を斬り高幹を退けて河東を守る
211年 潼関の戦いで関中の諸将と対する
220年 魏の相国を経て太尉に至る
226年頃 明帝の代に太傅となる
230年 八十歳で没し、成侯と諡される

略歴

鍾繇、字を元常といい、豫州潁川郡長社県の人である。のちに魏を支える鍾会は、その末子にあたる。 孝廉に挙げられ、尚書郎・陽陵令を経て、廷尉正・黄門侍郎などを歴任し、若くしてその才知を朝廷にうたわれた。 李傕・郭汜が長安で献帝を擁して専横をふるっていたころ、曹操が使者を長安に遣わすと、李傕らはこれを疑って捕らえようとした。このとき鍾繇は「いま英雄が並び立ち、みなが勝手に号令を下すなかで、ひとり曹兗州のみが王室に心を寄せております。その忠誠を退けては、天下の望みにそむきましょう」と説き、使者を礼をもって遇させた。 さらに献帝が長安を脱して東へ帰ろうとしたとき、鍾繇は同志と謀ってこれを助け、帝の東遷を成功に導いた。曹操はこの功を深く多とした。 やがて曹操が献帝を許に迎えると、かねて鍾繇の名を聞いていた曹操は、これを侍中・守司隸校尉として長安に鎮させ、関中一帯の軍事を委ね、しかも通常の規定にとらわれず事を裁く特権を与えた。西方の後事は、まるごと鍾繇の双肩に託されたのである。 関中には馬騰・韓遂ら、なお御しがたい群雄が割拠していた。鍾繇は彼らに書を送って禍福を説き、その子弟を人質として朝廷に差し出させ、巧みに西方を懐柔した。 建安五年(200年)、曹操が官渡で袁紹と対峙した際には、鍾繇は馬二千余頭を送って軍を助けた。曹操はこれを大いに喜び、「送られた馬は、まさに危急の用に応えるものであった。関右が平定され、朝廷に西を顧みる憂いがないのは、まことに足下の勲功である。昔、蕭何が関中を鎮め、食糧を絶やさず軍を成したのも、ちょうどこのようであった」と、鍾繇を漢の名相蕭何になぞらえて激賞した。 のち并州の高幹が叛き、匈奴と結んだ郭援が河東に攻め入ると、鍾繇は馬騰の助けを得てこれを迎え撃ち、郭援を斬ってその軍を大破し、関中の安定を守り抜いた。 その後、鍾繇は前軍師をつとめ、魏国が建つと大理・相国を歴任した。曹丕が帝位につくと廷尉を経て太尉に至り、明帝の代にはついに太傅に任じられて、位人臣を極めた。人はこれを敬って「鍾太傅」と呼んだ。 晩年、膝の病のために拝礼の起き伏しがままならなくなると、明帝は特に輿に乗って昇殿することを許した。ときに司徒華歆・司空王朗もまた老齢であり、朝廷はこの三公の老臣を、いずれも輿をもって遇したという。 太和四年(230年)、八十歳で世を去った。諡を成侯という。子の鍾毓・鍾会もまた名を成し、鍾氏は魏晋にまたがる名門として栄えた。 鍾繇は政治・軍事の実務にすぐれた元勲であると同時に、中国書道史に不朽の名を刻んだ大家でもある。曹喜・蔡邕・劉徳昇らに学び、それまでの隷書から楷書(真書)への転換を大成した「楷書の祖」と仰がれ、のちの王羲之にも深い影響を与えて、両者は「鍾王」と並び称される。

逸話

幼いころ、族父の鍾瑜に伴われて洛陽へ赴く途上、人相見が「この童子は貴き相をそなえているが、水の厄に遭うであろう。ゆめゆめ用心なされよ」と告げた。はたして道中、馬が驚いて鍾繇は川へ投げ出され、あやうく溺れかけた。これを見た鍾瑜は人相見の言をいよいよ信じ、以後、鍾繇の学資を惜しみなく援けたという。 書への打ち込みようは常軌を逸していた。寝ても覚めても指で字を書き、夜具の上に書きつづけて、ついに掛け布団を突き破ってしまったという(臥して被を画き、被これがために穿つ)。また、蔡邕の筆法を得られぬあまり胸を打って血を吐き、曹操の薬でようやく一命をとりとめたという逸話や、その筆法を求めて他人の墓を暴いたという伝説まで残るほど、後世、書聖のさきがけとして神格化された。代表作に『宣示表』『薦季直表』などがある。

評価

鍾繇は、乱世にあって関中を鎮めて曹操の覇業を西から支え、魏の三代にわたって元勲として重んじられた大人物である。献帝を助けて忠を尽くし、群雄を手なずけて一方を安んじたその手腕は、まさしく蕭何の再来と称するにふさわしい。 そのうえ、書においては一つの書体を大成して不朽の名を残した。文武と芸術のすべてに通じたこの稀有の才は、単なる能吏の枠をはるかに超えている。国を支える実務家にして、後世の書家がこぞって仰ぐ祖——鍾繇は、三国時代がうんだ最も奥行きの深い人物の一人であった。

演義

小説『三国志演義』では、正史ほどの活躍こそ描かれないが、曹操配下の重臣の一人として名を連ねる。 とりわけ潼関の戦い(馬超の乱)では、長安を守る将として登場する。馬超の急襲を受けて城を追われ、弟の鍾進を夜襲に討たれるなど苦戦を強いられ、やがて曹操みずからの出馬を待つことになる。書家としての名声は物語の主題ではないため深くは語られないが、魏の朝廷を支える文官として、その名は随所にとどめられている。