かきん

華歆

子魚 敬侯 生没年157年 – 232年 所属

清廉をもって三公を歴任した名士、魏朝の重鎮

能力値
統率 E
武力 F
知力 C
計略 D
政治 B
人望 B
関連年表
157年 平原郡高唐県に生まれる
189年頃 大将軍何進に召され尚書郎となる
196年頃 豫章太守として善政を布き、孫策に迎えられる
200年頃 曹操の召しに応じ、孫権を説いて許都へ上る
216年頃 魏国の建設にともない御史大夫となる
220年 曹丕の受禅を進め、相国を経て司徒となる
226年 明帝の代に太尉となる
232年 死去し、敬侯と諡される

略歴

華歆、字を子魚といい、青州平原郡高唐県の人である。高唐は名だたる都会で、役人たちは市中に遊び暮らすのが常であったが、華歆は勤めを退けば真っすぐ家に帰り、門を閉じて人の是非を口にすることがなかった。議論は常に公平を保ち、生涯、他人を誹り傷つけることがなかったという。 若き日、同郷の管寧・邴原と親しく交わり、三人はその優れた才徳から一頭の龍にたとえられた。華歆はその頭、邴原は腹、管寧は尾と称されたと伝わる。清廉にして篤実、人物を見る眼に長けたその資質は、乱世を生き抜き、やがて魏朝の重石となる素地であった。 華歆は孝廉に挙げられて郎中となったが、病を得て官を辞した。のち大将軍何進に召されて尚書郎となる。 やがて董卓が献帝を擁して長安へ遷ると、華歆は乱を避けて職を辞し、藍田を経て南陽へと落ちのびた。袁術が彼を引きとめて用いようとしたが、進言を容れられぬと見るや、これを去った。天子の使者としてやってきた太傅馬日磾に召されて掾となり、さらに詔によって豫章太守に任じられる。 豫章にあって華歆は、清らかにして煩わしからぬ政を布き、民をいたわった。役人も民もその徳に感じ入り、心から慕ったという。乱世にあってなお、彼の治める地には静かな安らぎがあった。 孫策が江東を平定して豫章に迫ると、華歆はその器量を見抜き、幅巾(一介の文人の身なり)のまま城を出て礼をもって迎えた。孫策は華歆を賓客の礼で遇し、孫策の没後は弟の孫権に仕えた。 官渡の戦いのころ、朝廷を握る曹操が天子の名において華歆を都へ召すと、孫権はこれを惜しんで手放そうとしなかった。だが華歆は「将軍が王命を奉じて朝廷とよしみを通じておくことこそ、末長い利となりましょう」と説いて孫権を納得させ、許都へと旅立った。 このとき、別れを惜しむ人々千余人が、はなむけに金品を贈った。華歆はひそかにそれぞれの品に印をつけておき、いよいよ出立という段になって、「本より皆様の志を拒む心はありませぬ。されど、ただ一台の車で遠路を行く身に、懐に玉を抱いて罪を招くのは本意ではありませぬ」と述べ、すべてを元の主に返したという。人々はその清廉に深く感じ入った。 許都に上った華歆は、議郎・尚書を経て侍中となり、荀彧に代わって尚書令に就いた。曹操が孫権を征したときには軍師をつとめ、魏国が建つと御史大夫に任じられた。 曹丕が漢の禅譲を受けて帝位につくと、華歆は相国を経て司徒となり、明帝の代には太尉に進んで、ついに三公を歴任するに至った。位人臣を極めながらも、その暮らしは驚くほど質素であった。俸禄や下賜の品はことごとく親族や旧知に分け与え、家に一石の蓄えもなかったという。 あるとき朝廷が公卿にそろって没収した奴婢を下賜したが、華歆ひとりはこれを解き放って嫁がせてやった。その徳に、明帝も居ずまいを正したと伝わる。華歆はまた、清節の高士として名高い旧友管寧を、自らに代えて登用するよう繰り返し薦めている。派手な功名ではなく、朝廷の重石としての徳望こそが、この人の真骨頂であった。

逸話

華歆の人となりを伝える逸話は多い。まだ管寧と机を並べて学んでいたころ、庭を耕していると土中から金塊が現れた。管寧は鍬をふるう手を止めず瓦礫のごとくに打ち捨てたが、華歆はいったんこれを拾い上げ、それから投げ捨てた。また二人で読書していると、門前を身分高き者の行列が過ぎた。管寧は端座して動じなかったが、華歆は書を置いて立ち上がり、これを見に出た。帰ってきた華歆に、管寧は席を断ち切って「君は、もはや我が友にあらず」と告げたという。名高い「管寧割席」の故事である。 また、王朗とともに船で難を避けたときのこと。一人の男が同乗を乞うと、華歆は難色を示したが、王朗は「幸い、まだ余裕がある」と快く乗せた。ところが賊が迫ると、王朗はその男を見捨てようとする。華歆は「はじめ迷ったのは、まさにこのためだ。だが、いったん引き受けたからには、危急を理由に見捨ててよいものか」と、最後までその男を守り抜いた。世の人は、この一事によって二人の人物の優劣を定めたという。

評価

陳寿は華歆を、清廉・寡欲にして高い徳望をそなえた名臣として高く評価している。若き日の「割席」の逸話が示すように、その生き方は求道者の管寧に一歩を譲るとも、乱世の実務を担い、なお身を汚さなかった点において比類がない。 華歆はまた、みだりに武を用いることを戒め、文徳をもって民を安んじ、農を勧めるべきことを説いた。華々しい功業よりも、その存在そのものが朝廷を鎮める重石となった——魏初の安定は、こうした徳望の臣によって支えられていたのである。

演義

小説『三国志演義』における華歆は、正史の清廉な名臣像とはうらはらに、権勢に阿る悪役として描かれる。 とりわけ、曹操の意を受けて伏皇后を壁の内から髪をつかんで引きずり出す場面や、曹丕による漢の禅譲を強引に推し進める場面などで、忠臣を陥れる憎まれ役をあてがわれている。これは、漢室に忠なる者たちを引き立てるための物語上の脚色であり、実像の華歆とは大きく隔たっている。史書と小説とで、これほど評価の分かれる人物も珍しい。