こたん

顧譚

字子黙 生没年205年 – 246年 所属呉

太子四友に数えられ、党争に流された名門の俊才

能力値
統率 F
武力 F
知力 C
計略 D
政治 C
人望 C
関連年表
205年 丞相・顧雍の孫、顧邵の子として生まれる
— 父・顧邵が三十一歳で早世する
— 幼くして学に通じ、二十歳前後で名を知られる
— 諸葛恪・張休・陳表とともに「太子四友」に数えられる
— 選曹尚書を経て太常となり、尚書の政務を統括する
241年 芍陂の役。弟・顧承と張休が魏の王淩軍を食い止める
241年 論功で全琮の子らが下位に置かれ、全琮父子の恨みを買う
241年 推挙者であった皇太子・孫登が三十三歳で早世する
244年頃 二宮の変で全寄の告発を受け、交州へ流される
交州にて 幽閉のなか『新言』二十篇を著す(「知難篇」は自らを悼む)
246年 交阯において没する(四十二歳)

略歴

顧譚、字を子黙といい、呉の丞相・顧雍の孫である。父は顧雍の長子・顧邵。建安十年(205年)の生まれ。 父・顧邵は孫策の娘を娶り、豫章太守を務めたが、三十一歳で早世した。顧譚は祖父の代からの名門・顧氏に育ち、幼くして学問に通じ、二十歳前後で世に名を知られた。 その俊英ぶりによって皇太子・孫登の側近に選ばれ、諸葛恪・張休・陳表とともに「太子四友」と呼ばれる。次代を担う人材として嘱望された四人であった。顧譚は選曹尚書を経て太常に至り、潘濬に代わって尚書の政務を統括する地位についた。 転機は赤烏四年(241年)の芍陂の役である。顧譚の弟・顧承と張休は、馬を下りて奮戦し、魏の王淩軍の進撃を食い止めた。そこへ全琮の子・全緒と全端が追撃をかけ、大いに破った。 ところが論功行賞において、「敵を食い止めた功が大きく、敵を追い退けた功は小さい」という評定が下る。顧承と張休は雑号将軍に任じられ、全緒・全端は偏将軍・裨将軍にとどまった。全琮父子はこれを深く恨んだ。 やがて二宮の変が激化すると、全琮の子・全寄は魯王・孫霸の賓客となり、顧譚を失脚させようと図る。芍陂の論功への恨みが、そのまま告発の口実となった。顧譚は罪を得て、遠く交州へ流された。弟の顧承もまた流され、張休は流刑地で自殺を命じられている。 交州に幽閉された顧譚は、憤りを筆に向けた。『新言』二十篇を著し、そのうちの「知難篇」は、みずからの運命を悼み傷んだものであったと陳寿は記す。だが「文が長いので載せない」と書き添えたため、その本文は今日に伝わらない。 赤烏九年(246年)、交阯において没した。四十二歳であった。

逸話

顧譚を滅ぼしたのは、味方の勝ち戦であった。 赤烏四年(241年)の芍陂の役で、弟の顧承と張休は馬を下りて奮戦し、魏の王淩軍の進撃を食い止めた。そこへ全琮の子・全緒と全端が追撃をかけて敵を破った。戦そのものは呉の勝利である。 問題は論功であった。「敵を食い止めた功が大きく、敵を追い退けた功は小さい」という評定が下り、顧承と張休は雑号将軍に上げられ、全緒・全端は偏将軍・裨将軍にとどまった。全琮父子はこれを深く恨んだ。数年後、二宮の変が激化すると、全琮の子・全寄は魯王・孫霸の賓客となり、この恨みを武器に顧譚を告発する。顧譚は交州へ流され、二度と帰らなかった。戦功の序列が、そのまま政争の刃に変わったのである。 「太子四友」と呼ばれた四人の行く末は、呉という国の病をそのまま映している。彼らを世に押し出した皇太子・孫登は、赤烏四年(241年)に三十三歳で早世した。死に臨んで上疏し、諸葛恪は才略博達、張休・顧譚・謝景はいずれも識見と判断力を備え、内に置けば腹心となり、外に出せば爪牙となる——そう書き残して、彼らを後主に託した。 その推挙状は、結果として粛清の名簿に近いものになった。張休は赤烏八年(245年)、流刑地で自殺を命じられる。顧譚は翌年、交阯で没した。諸葛恪は建興二年(253年)、宴席に招かれて誅殺される。四友のうちただ一人、陳表だけが嘉禾六年(237年)に三十八歳で病没し、この党争を見ずに済んだ。 顧譚が最後に選んだのは、筆であった。交州に幽閉された彼は、憤りを著述に向けて『新言』二十篇を書き上げた。なかの「知難篇」は、みずからの運命を悼み傷んだものであると陳寿は記している。だが「文が長いので載せない」と書き添えたため、その一篇は伝わらない。四十二歳で異郷に死んだ俊才が、何を「難し」と書いたのか——それを読む手だては、もう残されていない。 なお、同じ二宮の変を、まったく違う形で通り抜けた人物がいる。朱然の子・施績である。魯王・孫霸が幾度も役所を訪ねてきたのを、施績はそのつど席を外して会わなかった。そして党争を生き延び、左大司馬にまで進んだ。避けられた者と、避けられなかった者。顧譚の悲運は、名門に生まれ、期待を負い、すでに政の中枢にいたこと自体から逃れられなかったところにある。

評価

顧譚は、名門・顧氏の期待を一身に受け、太子四友に数えられた俊英でありながら、二宮の変という不毛な党争に巻き込まれて、志なかばで流謫のうちに斃れた。 その悲運は、後継争いがいかに多くの有為の人材を損なったかを示す一例であり、呉の衰えの背景を、いっそう暗く彩っている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、呉の名門・顧氏の一人としてその名が連なる。 祖父・顧雍に続く名族の俊才が、後継争いに散っていく史実は、呉の内訌の深刻さを物語っている。
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