そんとう

孫登

字子高 諡宣太子 生没年209年 – 241年 所属呉

次代を嘱望されながら早世した、呉の賢き皇太子

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 D
政治 C
人望 B
関連年表
209年 孫権の長子として生まれる。生母の身分が低く、徐夫人に養育される
221年頃 孫権の呉王就任に伴い東中郎将となる(魏の人質要求は拒まれる)
229年 孫権の即位により皇太子に立てられる
229年 立太子を辞して「まず后をお立てになるべきです」と養母を推す
— 諸葛恪・張休・顧譚・陳表を「太子四友」として側近に集める
— 狩りでは実った苗を避け、弾丸を照合して冤罪を防ぐ
— 身近な者の盗みを罪に問わず、口外を禁じる
241年5月 父に先立ち、三十三歳で没する
241年 臨終の上疏で弟・孫和を後継に推し、人材を挙げ、民の労役軽減を説く
後年 子の孫英・孫璠も、それぞれ政争のなかで死ぬ

略歴

孫登、字を子高といい、呉の大帝・孫権の長子である。建安十四年(209年)の生まれ。 生母の身分が低かったため、孫権の妻・徐夫人が引き取って養育した。黄武年間、孫権が魏から呉王に封じられると東中郎将となる。このとき曹丕は孫登を人質として送るよう求めたが、孫権は応じなかった。 黄龍元年(229年)、孫権が帝位に即くと皇太子に立てられた。程秉・張温を太子太傅とし、張昭の弟子から『漢書』を学ぶなど、学問をよくした。側近には諸葛恪・張休・顧譚・陳表を選び、世に「太子四友」と称される。ほかに謝景・范慎・刁玄・羊衛らも侍り、次代を担う人材が東宮に集まった。 その人柄は、仁愛と慎重さに尽きる。狩りに出て田野を通るときは、実った苗を避けて遠回りし、決して踏ませなかった。従者が誤って人を疑ったときは証拠を照合させて冤罪を防ぎ、身近な者が器物を盗んだときは罪に問わず内々に済ませて、口外を禁じた。父・孫権の行き過ぎには、子として、また臣として、穏やかに諫めを重ねた。 だが赤烏四年(241年)五月、孫登は父に先立って世を去る。三十三歳であった。 臨終に際して、孫登は長い上疏を残した。そこで彼は、弟の皇子・孫和を「仁孝聡明にして徳行清らか」と評して後継に推し、諸葛恪・張休・顧譚・謝景・范慎・華融らの名を挙げてそれぞれの器を論じ、そして民の労役を減らし負担を軽くすべきことを説いた。孫権はこの上疏を読んで悲しみに堪えられず、口にすれば涙をこぼしたと伝えられる。 英明な世継ぎを失ったことは、呉にとって計り知れぬ痛手であった。その死は、やがて二宮の変(南魯の党争)を招き、呉の宮廷を長い動揺へと導いていく。

逸話

孫登の人柄をもっとも端的に示すのは、皇太子に立てられるその場で辞退した一件である。 孫登の生母は身分が低く、彼を育てたのは孫権の妻・徐夫人であった。だが徐夫人は嫉妬を理由に呉郡へ退けられ、孫権が寵愛していたのは歩夫人である。孫登は歩夫人からの賜り物は拝して受けるだけであったが、徐夫人から衣服が届くと、必ず沐浴してから身につけたという。 立太子の話が出たとき、孫登は辞して言った——「本が立ってこそ、道が生じます。太子をお立てになるのであれば、まず后をお立てになるべきです」。孫権が「そなたの母は、いまどこにいるのか」と問う。孫登は答えた。「呉におります」。孫権は黙り込んだ。自分の位よりも養母の名誉を先に立てようとして、しかも父の痛いところを正面から突いたことになる。 仁愛を伝える逸話も、いずれも具体的である。馬で出かけたとき、どこからか弾丸が飛んできた。左右の者が探すと、ちょうど弾き弓と弾丸を持った男がいて、皆がこの者の仕業だと決めつけた。男は否認し、従者は打ち据えようとする。孫登はそれを許さず、飛んできた弾丸を拾わせて、男の持つ弾丸と比べさせた。種類が違っていた。男はそれで放免された。 また、水を入れる金の器が紛失したことがある。調べて犯人が分かったが、それは孫登自身の身近な者であった。罪に問うに忍びず、呼んで責めるだけにして家へ帰し、左右の者には「このことを口外するな」と命じた。狩りのときに実った苗を踏まぬよう遠回りしたという話と並べて読むと、この人が何を大事にしていたかがよく分かる。 だが、最も重いのは臨終の上疏である。孫登は弟の孫和を「仁孝聡明にして徳行清らか」と評して後継に推し、諸葛恪は才略博達、張休・顧譚・謝景は識見と判断力を備え「内に置けば腹心となり、外に出せば爪牙となる」、范慎・華融は国士の風がある——そう一人ひとりの器を論じて、父に託した。孫権は読んで涙が止まらなかった。 ところが、この上疏はそのまま悲劇の目録になった。推された孫和は太子に立ったのち廃され、幽閉されて死を賜る。腹心として挙げられた顧譚は交州に流されて客死し、張休は流刑地で自殺を命じられた。諸葛恪は権を握った果てに宴席で誅された。孫登自身の子も無事ではなく、孫英は孫峻を除こうと謀って自殺し、孫璠は謀反の罪で誅されている。 三十三歳で死んだ賢太子が最後に書き残した名簿は、十数年のうちに、ほとんどそのまま呉の政争の死者名簿へと変わっていった。

評価

孫登は、仁徳・聡明をそなえ、賢者を近づけて次代を嘱望された、まれにみる賢太子であった。もし彼が父の後を継いでいれば、呉の後半はまったく異なる道をたどったであろうと惜しまれる。 その早世と、遺された痛切な遺言は、失われた可能性の大きさを物語り、以後の呉の混迷を思うとき、いっそう惜しまれてやまない。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、孫権の賢い世継ぎとして名が挙がる。 その早世が、後の呉の後継争いへとつながっていく背景として位置づけられている。
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