かあん

何晏

平叔 生没年? – 249年 所属

清談と玄学を興した才子、曹爽に殉じた美貌の名士

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 D
政治 D
人望 D
関連年表
生年不詳 何進の孫として生まれ、母が曹操に召され曹操の宮に養われる
220年代 曹操の娘・金郷公主を娶り、曹氏の一門に連なる
240年代 王弼とともに清談を興し、玄学の祖と仰がれる
240年代 『論語集解』を編む
240年代 曹爽政権で吏部尚書となり、官吏の選任を握る
249年 高平陵の変で曹爽が敗れ、連座して捕らえられる
249年 曹爽らの罪を取り調べたのち、自らも同罪として誅される

略歴

何晏、字を平叔といい、後漢の大将軍・何進の孫にあたる。父を早くに失い、母の尹氏が曹操に召されて側室となったため、何晏は幼くして曹操の宮に養われた。曹操はこれを寵愛し、のちに娘の金郷公主を娶らせて、何晏は曹氏の一門に連なった。 その容姿はまばゆいほど美しく、肌が際立って白かった。魏の明帝は、これはきっと白粉を塗っているのだと疑い、真夏に熱い湯餅を食べさせてみた。何晏が汗をびっしょりかき、朱色の衣の袖でぬぐうと、顔はいよいよ白く輝いた——「傅粉何郎(粉をつけた何郎)」の語は、この話に由来する。歩けば自分の影さえ顧みる、と評されたほどの美貌の人であった。 才知にも恵まれ、老荘の玄理を好んで論じ、当代の名士と談論を戦わせる「清談」の風を興して、王弼とともに玄学の祖と仰がれた。「有」を生む根源としての「無」を尊ぶその思想は、魏晋の知識人の精神を深く方向づけた。また学者を集めて『論語集解』を編み、これは後世まで読み継がれた。 正始年間、曹爽が政権を握ると、何晏はその腹心として吏部尚書となり、官吏の選任を一手に握った。だが鄧颺・丁謐とともに「台中に三狗あり」と謗られ、その人事は縁故と派閥に流れて、実務よりも談論に長じた「浮華」の徒と批判された。 正始十年(249年)、高平陵の変で曹爽が司馬懿に敗れると、何晏も一味として捕らえられる。皮肉にも、司馬懿は何晏自身に曹爽らの罪状を取り調べさせたが、調べを終えて自らも同罪として捕われ、三族もろとも誅された。玄学の祖は、政争の敗者としてその生を終えたのである。

逸話

「傅粉何郎」——白粉をつけた何郎、という美男の代名詞は、何晏その人に始まる。あまりに肌が白いので明帝が白粉を疑い、真夏に熱い湯餅を食べさせたところ、何晏は汗をぬぐうほどにいよいよ白く輝いた、という話である。歩くときには自分の影さえ振り返って愛でた、とも伝わる。 その最期には、皮肉な逸話がまつわる。高平陵の変ののち、司馬懿は捕らえた何晏に、曹爽一党の罪をみずから取り調べさせた。何晏は保身のために懸命に調べ上げ、「これで八族を挙げました」と告げた。すると司馬懿は「まだ足りぬ。もう一族ある」と言う。何晏がはっと気づいて「まさか、この私のことでは」と問うと、司馬懿は「そのとおり」と答えた——調べていた当人が、最後の一族として名簿に加えられていたのである。 何晏はまた、生前しばしば「五石散」という鉱物の薬を服し、これを飲むと体が火照り、精神が澄みわたって物事がはっきり見えると称した。この服薬の風は名士のあいだに流行したが、実際には毒性が強く、身を損なう者が少なくなかった。玄学の祖として魏晋の思想を方向づけた才人は、政治の場では曹爽の与党として身を滅ぼし、その死とともに一つの時代の華やぎも幕を下ろした。

評価

何晏は、政治家としてよりも、思想史・文学史における存在として名を残した。彼が興した清談と玄学は、魏晋の知識人の精神風土を大きく方向づけ、後世に長い影響を及ぼした。 一方で、実務の場では曹爽の腹心として専権に加担し、その滅亡に連座した。才華と政治的判断の不釣り合いが、その運命を分けた。

演義

小説『三国志演義』では、曹爽に近侍する名士の一人として登場し、司馬懿を軽んじる進言をする。 高平陵の変で曹爽が失脚すると、その一党として滅ぼされる。玄学の祖としての側面よりも、曹爽政権の与党としての最期が中心に描かれている。