しょかつたん

諸葛誕

公休 生没年? – 258年 所属

淮南に最後の反旗を翻し、部下に慕われて散った魏の忠将

能力値
統率 D
武力 D
知力 D
計略 D
政治 D
人望 C
関連年表
生年不詳 琅邪郡陽都県に生まれる。諸葛亮・諸葛瑾と同族
240年代 尚書郎・御史中丞などを歴任し、一時「浮華」で免官される
252年 東関の役で呉に敗れる
255年 毌丘倹・文欽の乱の平定に功をあげる
255年 鎮東大将軍・都督揚州となり、淮南の兵権を握る
257年 司馬氏の粛清を恐れ、寿春で挙兵。子を人質に呉へ援を求める
257年 呉の文欽・唐咨・全懌らが入城して合流する
258年 内紛で文欽を斬るなど瓦解が進み、寿春陥落で斬られる

略歴

諸葛誕、字を公休といい、琅邪郡陽都県の人である。蜀の丞相・諸葛亮、呉の大将軍・諸葛瑾と同族にあたり、当時「蜀は其の龍を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と評されたと伝わる(狗は劣りの意ではなく、功ある働き手の謂)。魏に仕えて尚書郎・御史中丞などを歴任し、夏侯玄・鄧颺らと交わって名を知られたが、一時は「浮華」の名目で免官されたこともあった。 正始の政変ののち再び用いられ、揚州刺史となる。嘉平四年(252年)の東関の役では呉に敗れたが、正元二年(255年)、毌丘倹・文欽が寿春で司馬師に叛いて挙兵すると、諸葛誕はその平定に功をあげ、寿春に入って鎮東大将軍・都督揚州諸軍事となり、淮南の兵権を握った。 しかし、王淩・毌丘倹と、淮南に起った同僚の重臣が相次いで司馬氏に討たれ、親交のあった夏侯玄までもが誅されるのを見て、諸葛誕は次はわが身かと恐れた。彼はひそかに人心を収め、私兵として数千の死士を養い、蓄えを民に施して備えた。司馬昭が腹心の賈充を遣わして意を探り、都への栄転をちらつかせて兵権を削ごうとすると、甘露二年(257年)、諸葛誕はついに寿春に拠って挙兵し、みずから子・諸葛靚を人質に差し出して呉に援を求めた。呉からは文欽・唐咨・全懌らが兵を率いて入城し、これに合流した。淮南三叛の最後にして最大の乱である。 司馬昭は魏帝・曹髦と皇太后を奉じ、二十六万と号する大軍を率いて自ら出征し、寿春を幾重にも囲んだ。長期の攻囲のうちに城内は兵糧が尽き、内部は疑心に蝕まれていく。かつての盟友であったはずの諸葛誕と文欽は仲違いし、諸葛誕は文欽を斬ってしまう。これに憤った文欽の子・文鴦らが城を出て司馬昭に降ると、城兵の戦意はいよいよ崩れた。甘露三年(258年)、寿春はついに陥落する。諸葛誕はわずかな麾下と突囲を図ったが、追いつかれて斬られ、三族を誅された。

逸話

諸葛誕の名を後世に刻んだのは、その死にざまよりも、部下たちの殉じ方であった。寿春が落ち、諸葛誕が斬られたのち、麾下の兵数百人が捕らえられた。司馬昭の兵が一人ずつ引き出して「降れば助ける」と迫っても、彼らは一人として膝を屈しない。一人斬られるごとに、次の者へ「降るか」と問えば、みな声をそろえて「諸葛公のために死ぬのだ。悔いはない」と答え、順に首を打たれて、最後の一人まで誰も降らなかった。その従容たるさまに、討つ側の兵すら粛然としたと伝わる。人の心を得るとはこういうことかと、後世まで語り草になった。 諸葛一族が三国に分かれて仕えたことは、当時から人の口にのぼった。「蜀は其の龍を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」——龍は諸葛亮、虎は諸葛瑾、狗は諸葛誕を指す。狗はいやしみの語ではなく、よく功を立てる働き手の意で、一族三人がそれぞれの国で重んじられたことを言ったものである。 なお、諸葛誕が呉への人質として差し出した子・諸葛靚は、そのまま呉に仕えた。晋が呉を平定したのち、旧知の間柄であった晋の武帝・司馬炎が諸葛靚に会おうとしたが、靚は父を死に追いやった司馬氏を憚り、生涯、洛陽の都には背を向け、朝廷の方角へは決して座らなかったという。父の淮南の挙は、その子の身の処し方にまで、長く影を落としたのである。

評価

諸葛誕は、司馬氏の簒奪に抗した淮南三叛の最後の主であり、その敗死は魏の忠臣勢力の終焉を意味した。とりわけ、降を拒んで主のために従容と死んでいった数百の部下の逸話は、彼が人心を得ていたことを物語り、後世に強い印象を残した。 大勢はすでに司馬氏に傾いていたが、なお節を守って起った気概は、滅びゆく魏朝の一つの矜持であった。

演義

小説『三国志演義』では、司馬昭に抗して淮南で挙兵する魏の忠臣として描かれる。呉の援を得て寿春に籠城し、司馬昭の大軍と死闘を演じる。 城内の内訌と兵糧尽きにより落城し、諸葛誕は討たれる。その部下たちが主に殉じて死ぬさまが、忠義の悲話として綴られている。