しばふ

司馬孚

字叔達 生没年180年 – 272年 所属晋

簒奪に与せず、終生「魏の純臣」を貫いた司馬懿の弟

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 E
政治 C
人望 B
関連年表
180年 京兆尹・司馬防の子として生まれる。「司馬の八達」の三男
後漢末 戦乱のなか、自分の食を減らして兄たちに譲る
— 陳思王・曹植の文学掾となり、その才を惜しんで切諫する
220年 曹操の死の混乱を収め、喪事を整えて曹丕の即位を奉じる
230年代 度支尚書として、常備軍二万と穀物備蓄による関中防衛を建議する
— 尚書右僕射・司隷校尉を経て太尉に至る
260年 曹髦の屍を枕に哭し「陛下を殺したのは臣の罪」と嘆き、王礼の葬を願う
265年 金墉城を出る曹奐の手を取り「死ぬ日まで大魏の純臣」と言い切る
265年 晋で安平王・太宰に上るが、世事に関わらず憂いの色を帯びる
272年 没する(九十三歳)
272年 遺言に「魏の貞士、伊尹ならず周公ならず、伯夷ならず柳下恵ならず」と記させる

略歴

司馬孚、字を叔達といい、司馬懿の弟である。光和三年(180年)の生まれ。父は京兆尹・司馬防。 八人の兄弟はいずれも字に「達」を帯び、「司馬の八達」と称された。長兄が司馬朗(伯達)、次兄が司馬懿(仲達)、そして司馬孚が叔達、以下、馗(季達)・恂(顕達)・進(惠達)・通(雅達)・敏(幼達)と続く。 人となりは温厚で、廉直と謙譲をもって知られ、広く経史に通じた。漢末の戦乱のなかで兄弟とともに危難を凌いだときには、わずかな食物さえ足りぬなかで、常に自分の分を減らして兄たちに譲ったと伝えられる。 初めは陳思王・曹植の文学掾となり、その才を惜しんでしばしば切諫した。 建安二十五年(220年)、曹操が世を去ったとき、群臣は節度を失って泣き叫ぶばかりであった。司馬孚は朝廷で声を厲して言った——「いま大行(天子)が崩じられ、天下は震え動いている。まず嗣君をお立てして海内を鎮めるべきときだ。それをただ泣き叫んでいるだけでよいのか」。そして号泣する者を退かせ、禁衛を固め、喪事を整えて、曹丕の即位を奉じた。混乱を収めたのはこの人であった。 明帝の代、度支尚書として軍需を担った。諸葛亮が関中へ侵入するたび、辺境の兵は敵を抑えきれず、中央から駆けつける軍は時機に間に合わない。そこで司馬孚は、あらかじめ歩騎二万を二部に編んで討賊の常備とすべきこと、また連年の戦乱で穀物と布が不足しているため、鉄の工房を開いて器を造り、穀物を蓄えて辺防に備えるべきことを建議した。明帝はこれに従っている。兄・司馬懿が五丈原で諸葛亮と対峙したとき、その後方を支えた体制は、弟が設計したものであった。 のち尚書右僕射・司隷校尉を経て太尉に至る。 一族が魏の実権を握り、やがて帝位をうかがうようになっても、司馬孚はその簒奪の動きに深く与しようとしなかった。甘露五年(260年)、魏帝・曹髦が弑殺されると、司馬孚はその屍を枕にして哭し、「陛下を殺したのは臣の罪でございます」と嘆いた。そして王の礼をもって葬るよう願い出ている。 泰始元年(265年)、魏が晋に禅譲し、曹奐が金墉城を出るとき、司馬孚は拝辞して帝の手を取り、涙にむせんで自ら堪えきれずに言った——「臣は死ぬ日まで、まことに大魏の純臣でございます」。 晋が建つと皇族の長老として安平王・太宰に上り、この上ない尊崇を受けた。だが世事には関わろうとせず、その位にあって常に憂いの色を帯びていたという。泰始八年(272年)、九十三歳の長寿を保って没した。

逸話

司馬孚の生涯は、その遺言を読んでからもう一度たどり直すべき人である。 臨終にあたって、彼はこう記させた——「魏の貞士、河内温県の司馬孚、字は叔達。伊尹ならず周公ならず、伯夷ならず柳下恵ならず。身を立てて道を行い、終始一のごとし。素木の棺と単層の槨をもち、平服のままで納めよ」。 晋の安平王・太宰という、皇族の最高位にあった人物が、自らを「魏の貞士」と名乗った。そして四人の名を挙げて、そのいずれでもないと言う。伊尹と周公は、幼い君主を輔けて王朝を支えた忠臣の模範であり、同時に、後世の権臣が簒奪を正当化するときに必ず引いた名でもある。伯夷は殷に節を守って周の粟を食わず、柳下恵は乱れた世に身を汚さなかった。 つまり司馬孚は、簒奪を助けた者でもなく、旧王朝に殉じた者でもない——その中間に立ち続けた自分を、正確に言い当てている。一族が天下を奪っていくのを止めず、その恩恵に浴しながら、最後まで是とはしなかった。その矛盾を、本人は誰よりもよく知っていたのである。 魏の臣としての実績は、決して口先のものではなかった。 建安二十五年(220年)、曹操が死んだとき、群臣は泣き叫ぶばかりで朝廷は機能を失っていた。司馬孚は声を厲して叱った——「いま大行が崩じられ、天下は震え動いている。まず嗣君をお立てして海内を鎮めるべきときだ。それをただ泣き叫んでいるだけでよいのか」。そして号泣する者を退かせ、禁衛を固め、喪事を整えて曹丕の即位を奉じた。曹操の死による混乱を収拾したのは、この弟であった。 明帝の代には度支尚書として、諸葛亮の北伐に対する防衛体制そのものを設計している。辺境の兵では抑えきれず、中央軍は間に合わない——その構造的な弱点を指摘し、歩騎二万を二部に編んで常備とすること、鉄の工房を開いて武具を作り、穀物を蓄えて辺防に備えることを建議して、採用された。兄・司馬懿が五丈原で諸葛亮と向き合えたのは、弟が整えたこの後方があってのことである。 そして二つの場面で、司馬孚は一族の側ではなく魏の側に立った。 甘露五年(260年)、曹髦が成済の刃に倒れたとき、司馬孚はその屍を枕にして哭し、「陛下を殺したのは臣の罪でございます」と嘆いた。みずから手を下したわけでもない人物が、自分の罪だと言ったのである。そして王の礼をもって葬るよう願い出た。 泰始元年(265年)、禅譲を終えた曹奐が金墉城を出るとき、司馬孚は拝辞してその手を取り、涙にむせんで言った——「臣は死ぬ日まで、まことに大魏の純臣でございます」。相手はもう皇帝ではなく、自分の一族が天下を取ったばかりである。それでも彼は「純臣」と言い切った。 後世、この人を偽善と見る評は絶えなかった。弑逆を悲しんでも止めず、禅譲に涙しても最高位を受けた——その通りである。だが彼は富貴を喜ばず、世事に関わらず、位にありながら常に憂いの色を帯びていたと史書は記す。そして墓に刻ませたのは「晋の太宰」ではなく「魏の貞士」であり、しかも自分を忠臣の模範になぞらえることすらしなかった。 九十三年の生涯は、曹操の死から晋の建国までをすべて見届けている。その長い歳月をかけて、この人は「どちらでもない者」であることを選び続けた。

評価

司馬孚は、みずからの一族が天下を奪っていくただ中にあって、なお旧主・魏への忠を捨てず、「魏の純臣」たらんとした、きわめて特異な人物である。その立場は複雑で、簒奪の恩恵に浴しながら簒奪を悲しむという矛盾を、生涯背負い続けた。 だが注目すべきは、その矛盾を本人が最もよく自覚していたことである。墓に刻ませたのは「晋の太宰」ではなく「魏の貞士」であり、しかも伊尹・周公にも伯夷・柳下恵にもなぞらえず、どちらでもない者として自らを言い当てた。時流に抗しきれぬまま是とはしなかった生涯の、静かな自己認識であった。

演義

小説『三国志演義』では、魏の禅譲の場面などで、退く旧主に涙する司馬氏の長老として、その名が現れる。 一族の簒奪を悲しみ、魏への忠を口にするその姿が、王朝交代の非情さに、一抹の情を添えるものとして描かれている。
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