おうしゅん

王濬

字士治 生没年206年 – 286年 所属晋

巨艦を連ねて長江を下り、呉を降した晋の水軍の将

能力値
統率 C
武力 D
知力 D
計略 C
政治 E
人望 D
関連年表
206年 弘農郡湖県に生まれる。代々二千石を出した家
— 家を建てて門前の道を数十歩に広げ、「長戟や幡旗が通れるように」と言う
— 羊祜に器量を見抜かれ、広漢太守に推される
— 巴郡太守として賦役を軽くし、数千人の子を生かす
272年 三刀の夢ののち、益州刺史となり賊の張弘を討つ
270年代 益州で巨大な連結船を建造する(甲板で馬を走らせられる規模)
270年代 造船の木屑が流れ下り、呉の吾彦が察知して進言するが孫晧は従わず
280年 大筏で鉄錐を除き、麻油の松明で鉄鎖を焼き切って長江を下る
280年 杜預の書に押され、王渾の指揮を「風がよいので停泊できません」と断る
280年 建業に迫り、孫晧の降伏を受ける。三国の分裂が終わる
280年以降 王渾に「詔に違った」と弾劾され、戦功を争う
286年 没する(八十歳)。大将軍を贈られ武侯と諡される

略歴

王濬、字を士治といい、弘農郡湖県の人である。建安十一年(206年)の生まれ。代々二千石の官を出した家に育ち、広く典籍を渉猟して、容姿も立派であった。 若いころは、郷里で高く評価されていなかった。家を建てたとき、門前の道をわざわざ数十歩の幅に広げたところ、「なぜそんなに広くするのか」と問われて、こう答えている——「長戟や幡旗が通れるようにしたいのだ」。人々は笑ったが、王濬は動じなかった。 のちに羊祜がその器量を見抜いて深く遇した。羊祜の一族の者が「王濬は志が大きすぎて任せられない」と評したときも、羊祜は「王濬には大才がある。志を得させれば必ず用に堪える」として広漢太守に推している。 巴郡太守となったときの治績も伝わる。この郡は呉との国境に接し、兵役の重さから男児が生まれても育てない家が多かった。王濬は徴発の規定を改めて賦役を軽くし、出産した家には休暇と免除を与えた。これによって生き延びた子は数千人に及んだという。 やがて益州刺史となり、泰始八年(272年)には刺史・皇甫晏を殺した賊の張弘を討った。 武帝が呉征伐を決すると、王濬は益州で艦隊の建造にあたる。造られた連結船は方百二十歩、二千余人を乗せ、木で城郭を組み、楼櫓を立て、四方に門を開いて、甲板の上で馬を走らせることができたという。 太康元年(280年)、王濬はこの大艦隊を率いて長江を下った。呉は要害に太い鉄鎖を横に張り渡し、水中には一丈余りの鉄錐を沈めて行く手を阻んでいた。だが王濬は、方百余歩の大筏を数十作り、草人形に甲を着せて乗せ、泳ぎの達者な者に先行させて鉄錐を筏に突き刺させて除いた。鉄鎖には、長さ十余丈・太さ数十囲の松明に麻油を注いだものを船首に掲げ、焼いて融かし断ち切った。 行く手を阻む者なく、艦隊は破竹の勢いで建業に迫る。旌旗は天を覆い、呉人は大いに懼れた。呉主・孫晧は璽綬を王濬のもとへ送って降伏し、ここに三国の分裂は終わった。唐の詩人・劉禹錫は『西塞山懐古』にこう詠んでいる——「王濬の楼船 益州より下り、金陵の王気 黯然として収まる。千尋の鉄鎖 江底に沈み、一片の降幡 石頭より出づ」。 戦後、王濬は同じく征呉に加わった王渾との間で、戦功をめぐる激しい争いに巻き込まれた。太康六年(286年)に没した。八十歳。大将軍を贈られ、武侯と諡された。

逸話

まだ無名であったころ、王濬は家を新築して門前の道を数十歩の幅に広げた。奇妙に思って尋ねた者に、彼はこう答えている——「長戟や幡旗が通れるようにしたいのだ」。笑われても引かず、「力を尽くして位に就けば、茅屋の下から用いられることもあろう。どうしてそうならないと言えるのか」と言い返した。七十年あまりのちに大将軍の儀仗がその道を通ることになる。 益州へ赴く前には、よく知られた夢を見ている。寝室の梁に三本の刀が懸かっており、しばらくすると一本増えた。不吉に思って目覚めた王濬に、主簿の李毅が再拝して祝った——「三つの刀は『州』の字をなします。さらに一つ増えたのは、あなたが益州に臨まれるということです」。やがて益州刺史・皇甫晏が賊に殺され、果たして王濬がその後任となった。この一件から「三刀の夢」は昇進の前兆を指す言葉になった。 長江を下る前に、呉の側はすでに異変を察知していた。益州での造船で出た木屑が、国境の川を覆って流れ下ったのである。呉の建平太守・吾彦はこれを拾い上げて孫晧に示し、「晋には必ず呉を攻める計があります。建平の兵を増やされますよう。建平が落ちなければ、敵はついに渡る勇気を持ちません」と進言した。孫晧は従わなかった。亡国の兆しは、水に浮いた木の屑として上流から届いていた。 鉄錐と鉄鎖を破った手際も、情報があってはじめて成り立っている。その防備の内実を晋側が詳しく知っていたのは、生前の羊祜が呉の間諜を捕らえて聞き出していたからであった。羊祜は咸寧四年(278年)に世を去り、呉の平定を見ていない。王濬を広漢太守に推したのも羊祜である。見出した人物に手段を与え、自分は間に合わなかったことになる。 建業への突入には、命令違反が伴っていた。詔は、王濬が秣陵に至れば王渾の指揮を受けるよう定めていた。王渾は使者を送って「しばらく立ち寄って相談したい」と求めたが、王濬は帆を揚げたまま直進し、こう返答した——「風がよいので、停泊できません」。 背中を押していたのは杜預であった。江陵にあった杜預は王濬に書を送り、「足下はすでに西の藩を砕いた。ただちに秣陵を取り、累世の寇を討って、呉人を塗炭から解き放つべきだ」と説いている。破竹の勢いという言葉の主は、ここでも勢いを止めるなと言ったのである。 だが戦後の王濬は、手際よくなかった。王渾は「詔に違い、指揮を受けなかった」として弾劾し、その子が武帝の女婿であったこともあって一族の勢いは強い。王濬は自分の大功が抑えられていると感じ、謁見するたびに戦功の労を訴え、ときには憤って立ち上がって退出することさえあった。武帝はそのつど許容した。 このとき益州護軍の范通が忠告している。「卿の功は立派ですが、惜しいことに、その収め方が完全には善くありません」。どうすべきかと問う王濬に、范通はこう言った——「帰還された日に、角巾をかぶって私邸に引きこもり、呉平定のことを口にされなければ、どうして立派でないことがありましょう」。王濬は「はじめは孫晧を捕らえた勢いで、やむを得なかった」と答えたという。自分でも誇りすぎたことを、わかってはいたのである。

評価

王濬は、益州で大艦隊を築き上げ、長江を一気に下って呉の息の根を止めた、呉平定の最大の殊勲者である。鉄鎖・鉄錐という呉の防備を、知恵をもって鮮やかに打ち破った手際は、水軍の名将の面目躍如たるものであった。 三国の争乱を締めくくったその大功は、後世、統一の壮挙を象徴する場面として、詩にも詠み継がれた。

演義

小説『三国志演義』では、終盤の呉征伐において、益州から水軍を率いて長江を下る晋の将として登場する。 鉄鎖・鉄錐の仕掛けを焼き払い、取り除いて突き進み、呉を滅ぼす立役者として描かれ、長い物語の結末を担っている。
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