けいこう

嵆康

字叔夜 生没年223年 – 262年 所属魏

俗世を拒み、刑場に広陵散を弾いた竹林の領袖

能力値
統率 F
武力 E
知力 B
計略 F
政治 F
人望 C
関連年表
223年 譙郡銍県に生まれる。早くに父を失う
— 曹操の曾孫にあたる長楽亭主を妻とし、中散大夫となる
— 身だしなみを構わぬまま「龍章鳳姿、天質自然」と評される
— 貧しく、向秀とともに大樹の下で鍛冶を打って生計を立てる
— 訪ねてきた鍾会を、鍛冶の手を止めずに迎える
— 山濤の推挙を『山巨源に与えて交わりを絶つ書』で拒む
262年 友人・呂安の事件に連座して獄に下る
262年 鍾会が「嵆康は臥龍です。起たせてはなりません」と讒言する
262年 東市で、太学生三千人が師と仰ぐことを請うが許されない
262年 日影で刻限を確かめ、『広陵散』を弾いて死す(四十歳)
262年以降 司馬昭はやがて自らの判断を悟り、悔いたと『晋書』は記す
304年 子の嵆紹が恵帝を守って戦死し、帝がその血を「洗うな」と言う

略歴

嵆康、字を叔夜という。黄初四年(223年)の生まれ。本貫は譙郡銍県。先祖は奚姓で会稽上虞の人であったが、怨みを避けて移り、銍の嵆山のほとりに住んだことから嵆を氏としたと伝わる。 早くに父を失った。身の丈七尺八寸、言葉は美しく風儀を備えていたが、身だしなみをまるで構わなかった。それでも人は「龍章鳳姿、天質自然」——龍の紋様と鳳凰の姿、生まれつきの自然さ——と評したという。 曹操の曾孫にあたる長楽亭主を妻に迎え、魏の宗室につらなった縁で中散大夫に任じられた。そのため「嵆中散」とも呼ばれる。 玄学と音楽に卓越し、竹林の七賢の中心人物であった。琴の名手として知られ、とりわけ『広陵散』の妙は当代に並ぶ者がなかった。『声無哀楽論』『養生論』『琴賦』などの著述も残している。 暮らしは貧しかった。七賢の一人である向秀とともに、大樹の下で鍛冶を打って生計を立てていたという。世俗の栄達を求めず、竹林に遊んで清談にふけった。 司馬氏が権勢を握ると、これに与することを潔しとせず、出仕を拒み続けた。友人の山濤が選官の職を去るにあたって後任に推挙したときには、あの名高い『山巨源に与えて交わりを絶つ書』を書いて、きっぱりと断っている。 景元三年(262年)、友人の呂安が兄に誣告されて獄に繋がれる事件が起こった。嵆康はその弁護に関わったことで事件に巻き込まれ、ともに捕らえられる。そこへ讒言が加わり、ついに処刑が決まった。 東市に引き出された嵆康は、少しも取り乱すことなく従容と死についた。四十歳であった。

逸話

嵆康を殺したのは、一度の無礼であった。 まだ若かった鍾会が、嵆康を訪ねてきたことがある。当時の鍾会は貴公子であり、才弁をもって知られていた。ところが嵆康は礼もせず、鍛冶の手を止めもしなかった。長いあいだ待たされた鍾会がついに立ち去ろうとしたとき、嵆康は初めて口を開いた——「何を聞いて来たのか。何を見て去るのか」。鍾会はこう答えて去った。「聞いたことを聞いて来た。見たことを見て去る」。 数年後、呂安の事件で嵆康が獄に繋がれると、この鍾会が司馬昭の前で決定的な一言を放つ。 「嵆康は臥龍です。起たせてはなりません。公は天下を憂えずともよろしいが、ただ嵆康をこそ慮られますよう」。 臥龍——諸葛亮に与えられたあの呼び名を、鍾会は嵆康に当てた。この男が世に出れば危険だ、という讒言である。司馬昭は鍾会を信じ、処刑を決めた。 もっとも、嵆康自身が書き残した文章にも、権力の側が放置できない一句があった。山濤への絶交書である。そこで嵆康は、官に就けない理由を「七不堪二不可」として列挙した。朝寝坊が好きで早起きができない、虱が多くて体を洗うのが嫌いだから官服で礼拝などできない、手紙を書くのが苦手だ——半ばは諧謔である。だが「二不可」の一つがこうであった。「湯武を非として周孔を薄んず」。殷の湯王と周の武王を正しくないとし、周公と孔子を軽んじる、と。 司馬氏は、周公が幼主を輔けた先例をもって自らの摂政を正当化していた。その周公を軽んじると公言することは、体制の根拠そのものを否定するに等しかった。 刑場の記録は、よく知られている。東市に引き出された嵆康のもとへ、太学の学生三千人が集まった。彼らが請ったのは助命ではない——師として仰ぎたい、という願いであった。許されなかった。 嵆康は日影を顧み見て、刻限までまだ間があると知ると、琴を取り寄せて弾いた。そして言った——「昔、袁孝尼がわたしに広陵散を学びたいと言ったが、わたしは毎度惜しんで固く断った。広陵散は、いまここに絶えるのだ」。四十歳。海内の士で、これを痛まぬ者はなかったという。 そして『晋書』は、短く書き添えている——「帝、尋いで悟りて恨む」。司馬昭はやがて自分の判断を悟り、悔いた。 この一族には、もう一つの場面が待っていた。 嵆康が死んだとき、子の嵆紹は十歳であった。山濤に育てられ、のちに晋の侍中となる。そして永興元年(304年)、八王の乱のさなか、蕩陰の戦いで恵帝の乗輿が敵兵に囲まれたとき、嵆紹は身をもって帝をかばい、矢に射られて死んだ。その血は恵帝の衣に飛び散った。 のちに従者が衣を洗おうとすると、暗愚と言われたその皇帝は、こう言って止めたという——「これは嵆侍中の血である。洗い去るな」。 司馬氏に殺された男の子が、司馬氏の皇帝を守って死に、その血を皇帝が惜しんだ。

評価

嵆康は、権力に媚びず、俗世に背を向けて孤高を貫いた、魏晋の名士の理想像である。玄学と音楽に極まった才、そして刑場で悠然と名曲を奏でて散ったその最期は、後世の文人たちに絶大な憧憬をもって仰がれた。 その死は、司馬氏の専制のもとで自由な精神が圧殺されていく時代の苛烈さを物語る。なお『晋書』は、司馬昭がやがて自らの判断を悟って悔いたと書き添えている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、竹林の七賢の一人としてその名が知られる。 刑場に『広陵散』を奏でて散った逸話は、魏末の清談の名士の悲運を象徴するものとして、後世長く語り継がれた。
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