ちょうろ

張魯

公祺 生没年? – 216年 所属後漢

漢中に神権の理想郷を築いた五斗米道の教主

能力値
統率 D
武力 D
知力 D
計略 D
政治 C
人望 B
関連年表
191年頃 劉焉の命で漢中を攻め、太守・蘇固を討つ
190年代 張脩を併せて漢中を領有し、桟道を断ち半独立する
200年頃 劉璋に母と一族を殺され、益州本国と断絶する
190〜210年代 五斗米道による政教一致の統治(義舎・寛刑)を布く
215年 曹操の陽平関侵攻を受ける(弟・張衛が抵抗)
215年 巴中へ退き、倉庫を封印して降伏する
215年 鎮南将軍・閬中侯に封じられる
216年頃 死去/五斗米道が中原へ広まる

略歴

張魯、字を公祺といい、沛国豊県の人である。祖父は五斗米道(天師道)を開いた張陵(張道陵)、父は張衡で、張魯はその教えを継ぐ三代目の指導者、いわゆる「三代天師」であった。 益州牧の劉焉に仕えて督義司馬に任じられ、別部司馬の張脩とともに、劉焉の命で漢中太守の蘇固を攻めた。漢中を得たのち、張魯は張脩を殺してその軍を併せ、さらに関中と益州を結ぶ桟道(斜谷閣道)を断ち、朝廷の使者を害して、漢中一帯を自らの半独立の勢力圏とした。劉焉はこれを黙認し、朝廷には「米賊が道を塞いだ」と偽って報じたという。 やがて劉焉が没して子の劉璋が跡を継ぐと、劉璋は命に服さぬ張魯を憎み、その母と一族を殺した。これにより両者は完全に断絶し、劉璋はたびたび兵を送って漢中を攻めたが、張魯を屈服させることはできなかった。 漢中において張魯は、五斗米道の教義に基づく政教一致の統治を、およそ三十年にわたって行った。自らを「師君」と称し、入信したばかりの者を「鬼卒」、進んだ者を「祭酒」、多くの信徒を統べる者を「治頭大祭酒」と呼んで組織した。役人(長吏)を置かず、祭酒たちが地方の政を執った。道沿いには「義舎」を設けて米や肉を無料で置き、旅人が必要なだけ取れるようにした。法を犯した者も三度までは許し、それでも改めねば罰したが、軽い罪には道路を百歩修復させるにとどめた。誠実と正直を重んじ、病は自らの過ちを悔いることで癒えると説いた。この寛容で素朴な統治のもとに、戦乱を逃れた漢人や周辺の異民族が数万戸も流れ込み、漢中は乱世の中の安住の地となった。 215年、曹操が大軍を率いて漢中の東の門・陽平関に迫った。張魯は初めから降ろうとしたが、弟の張衛が受けつけず、関を固めて頑強に抵抗した。曹操も一度は攻めあぐねて撤退を考えたほどであったが、偶然が重なって関を抜き、漢中は落ちた。張魯は巴中へと退く。このとき側近が宝物庫を焼き払おうとしたが、張魯は「もとより国家に帰順するつもりであった。この財宝や倉庫は国家のものである」と述べて封印し、そのまま立ち去った。曹操はこれを義として深く喜び、使者を送って張魯を迎え、鎮南将軍・閬中侯(万戸侯)に封じて厚遇した。張魯の子は曹操の一族と縁組みし、その一門は魏の世に重んじられた。翌216年ごろ、張魯は没した。彼に従っていた信徒の多くが関中・中原へ移り、五斗米道はこののち各地へ広まって、後世の道教の一大源流となった。

逸話

張魯の統治で名高いのが、道沿いに設けられた「義舎」である。そこには「義米」「義肉」が置かれ、旅する者は誰でも腹の満ちるだけ取ってよかったが、必要以上に多く取れば「鬼(神)が病を下す」と信じられ、みだりに貪る者はいなかったという。役所も刑吏もほとんど置かぬまま、信仰と自律によって秩序が保たれた、稀有な統治であった。 かつて漢中で、地中から玉の印璽が掘り出されたことがあった。人々はこれを瑞兆として、張魯に「漢寧王」を称するよう勧めた。しかし功曹の閻圃が「今にわかに王を号すれば、災いを招くだけです」と諫めると、張魯はその言を容れて王位に就かなかった。 曹操に降る際、倉庫を焼かずに封印して去った逸話は、張魯の人柄の穏やかさと、大局を見る目を示すものとしてしばしば引かれる。財を惜しんで焼くのではなく、あえて敵に遺してその義を示すこの振る舞いが、曹操の厚遇を引き出したのである。

評価

張魯は、単なる一群雄というより、道教史における重要な宗教指導者として特筆される。祖父・張陵に始まる五斗米道を漢中の地に根づかせ、義舎による相互扶助と寛刑の統治を三十年にわたって実現した。それは乱世の民に安らぎを与える一種の理想郷とみなされ、後世まで語り継がれた。 王位を勧められても退け、曹操に降る際にも倉庫を焼かなかったその身の処し方には、力ではなく徳をもって人を治めようとする姿勢がうかがえる。彼の降伏を機に五斗米道が中原へ広まったことは、三国の政治史のみならず、中国宗教史のうえでも大きな意味を持つ。

演義

小説『三国志演義』では、漢中に割拠する一勢力の主として登場する。曹操に追われた馬超を一時受け入れて重用しようとするが、腹心・楊松の讒言や思惑に振り回され、馬超もやがて劉備のもとへ去ってしまう。 やがて曹操の漢中侵攻を受け、弟・張衛や龐徳らに守らせるも抗しきれず、降伏する。宗教的指導者としての性格よりも、興亡する一群雄としての側面が中心に描かれている。