かんすい

韓遂

文約 生没年? – 215年 所属後漢

涼州に長く割拠し、曹操を悩ませた西方の梟雄

能力値
統率 C
武力 C
知力 C
計略 D
政治 D
人望 C
関連年表
184年 涼州の乱(北宮伯玉・辺章ら)に加わる
180年代後半 辺章らを併せて乱の中心となり、董卓・孫堅らと戦う
190年代 馬騰と結び、また争う
208年頃 馬騰が許へ移り、馬超が涼州の軍を継ぐ
211年 潼関の戦いで関中連合を率い、離間の計に敗れる
212〜214年 涼州へ退き、夏侯淵らと転戦する
215年頃 部下に背かれ殺される(七十余歳)

略歴

韓遂、字を文約といい、涼州金城郡の人である。もとの名を韓約といった。若くして涼州に名の知られた名士であったが、その生涯のほとんどを西方の争乱の中に過ごすことになる。 184年(中平元年)、涼州で北宮伯玉・李文侯ら羌胡が乱を起こすと、韓遂は同じく名士の辺章とともにこれに巻き込まれ、やがて反乱軍の首領格に押し上げられた。彼は北宮伯玉・李文侯・辺章らを次々に除いてその兵を併せ、乱の実権を握る。討伐に向かった皇甫嵩・張温、また董卓や若き孫堅らの官軍を相手に、涼州の地の利を頼みに長く抗し続けた。 韓遂は、同じ涼州の雄である馬騰としばしば手を結び、また争った。一時は義兄弟の契りを結ぶほど親しかったが、やがて仲違いし、互いに相手の妻子を害するなど、深い宿怨を抱く間柄となる。それでも外から大敵が迫れば再び連合するなど、離合を繰り返しながら、二人は西方に大きな勢力を保ち続けた。後漢の朝廷も彼らを力で屈しきれず、官位を授けて懐柔をはかった。208年ごろ、馬騰が朝廷に召されて許の衛尉となり都へ移ると、その子・馬超が涼州の軍を継ぎ、韓遂と並ぶ関中の実力者となった。 211年、曹操が漢中の張魯征討を名目に軍を関中へ進めると、これを自らへの脅威と見た馬超・韓遂ら関中の諸将十部が連合して立ち向かった(潼関の戦い)。当初は連合軍が地の利を活かして優勢に戦ったが、曹操は正面からの決戦を避け、馬超と韓遂の間を裂く離間の計を用いた。ここに、長く西方を支えてきた連合はもろくも崩れ去り、関中軍は潼関に大敗する。 敗れた韓遂は涼州へ退き、なお抵抗を続けた。曹操の将・夏侯淵らの追討を受けながら金城・西平の間を転戦したが、勢いは日に日に衰えていった。そして215年ごろ、ついに部下に背かれて殺される。七十余歳であったと伝わり、涼州に半生を刻んだ梟雄は、味方の手にかかって最期を迎えた。

逸話

潼関の対陣中、曹操と韓遂は、それぞれ馬を進めて陣の間で会見した。曹操と韓遂の父はかつて同じ年に孝廉に挙げられた縁があり、二人自身も都で面識があった。曹操は軍事にはいっさい触れず、ただ昔の京師の思い出話ばかりを語り、手を打って笑い合った。会見が終わると、馬超が「曹操は何を言っていたのか」と問うたが、韓遂は「格別のことは何も」と答えるほかなく、これがかえって馬超の疑いをかき立てた。 さらに曹操は、韓遂に宛てた書簡の要所をわざと塗り消し、あたかも韓遂自身が都合の悪い箇所を改めたかのように見せかけて送った。それを見た馬超は、韓遂が曹操と裏で通じていると疑い、両者の結束は完全に崩れた。この一連の離間の計は、後世まで人心を裂く策の典型として語られている。 韓遂は数十年もの間、辺境の涼州にあって中央の支配に抗い続けた、稀に見る長命の梟雄であった。しかしその最期は、名将の采配にではなく、味方の裏切りによって断たれたのである。

評価

韓遂は、辺境の涼州にあって数十年にわたり中央の支配に抗い続けた、したたかな梟雄である。馬騰との離合、関中連合の盟主格としての存在感など、後漢末の西方情勢を語るうえで欠かせない人物であった。羌胡をも束ねてこれを動かした点に、辺境の実力者としての一面がよく表れている。 その最期は、曹操の巧みな離間策の前に連合が瓦解し、味方に背かれて果てるという、乱世の割拠勢力の宿命を象徴するものであった。武力よりも人と人との結びつきによって勢力を保った者が、その結びつきを断たれて滅んだところに、韓遂という人物の生涯が凝縮されている。

演義

小説『三国志演義』では、馬騰の義兄弟として登場し、潼関の戦いで馬超とともに曹操に立ち向かう。 しかし曹操の離間の計にかかり、馬超から内通を疑われて斬りかかられ、片腕を失う。以後は曹操側に転じるなど、離間策の犠牲者として、また馬超の悲運を際立たせる存在として印象的に描かれている。