しょういく

鍾毓

字稚叔 生没年? – 263年 所属魏

弟・鍾会の危うさを見抜いた、鍾繇の長子

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 D
政治 C
人望 D
関連年表
— 鍾繇の長子として生まれる(弟は鍾会)
— 召見の席で汗を問われ「汗の出ること漿のごとし」と答える
— 父の薬酒を盗み飲み、「酒は礼を成す」と答える
— 十四歳で散騎侍郎となり「父の風あり」と評される
正始年間 黄門侍郎となる
254年 廷尉として夏侯玄の審理にあたり、夜のうちに自白書を代作する
— 都督徐州・荊州諸軍事を経て、青州都督・車騎将軍に至る
— 司馬昭に「会は術を挟んで保ちがたい。専任してはならぬ」と密啓する
263年 没する。車騎将軍を追贈され、恵侯と諡される
264年 鍾会の謀反後、司馬昭がその密啓を思い出し、子の鍾峻・鍾辿らを赦す

略歴

鍾毓、字を稚叔といい、魏の名臣・鍾繇の長子で、鍾会の兄である。 幼いころの機知を伝える逸話が、『世説新語』に二つ残っている。ひとつは、兄弟が召見された席で汗を問われたもので、兄の鍾毓は「戦戦惶惶として、汗の出ること漿のごとし」と答え、弟の鍾会は「戦戦栗栗として、汗、敢えて出でず」と答えた。もうひとつは、父の昼寝中に二人で薬酒を盗み飲んだ一件である。寝たふりをして見ていた鍾繇が、あとで理由を問うと、拝礼してから飲んだ鍾毓は「酒は礼を成すもの。拝礼せぬわけにはまいりません」と答え、拝礼せずに飲んだ鍾会は「盗みはもとより礼ではありません。だから拝礼しなかったのです」と答えた。礼に即して答える兄と、論理で切り返す弟——兄弟の資質の違いが、幼時からはっきり分かれている。 十四歳で散騎侍郎となり、「機知が働き談笑に長け、父の風があった」と評された。正始年間には黄門侍郎となる。 嘉平六年(254年)、李豊らが司馬師の排除を謀って露見した事件では、廷尉として夏侯玄の審理にあたった。自白を拒む夏侯玄に正色して責められた鍾毓は、その節が高く屈しないと見て、夜のうちに自白書を代作したと『魏氏春秋』は伝える。 のち都督徐州諸軍事、都督荊州諸軍事を経て、青州都督・車騎将軍に至った。実直で分別のある官人であった。 そして鍾毓は、弟の危うさを早くから見抜いていた。『三国志』はこう記す——鍾毓は鍾会が必ず危うくなると考え、ひそかに司馬昭へ「会は術を挟んで保ちがたい。専任してはなりません」と申し上げていた。 景元四年(263年)、鍾毓は世を去った。車騎将軍を追贈され、恵侯と諡された。弟の鍾会が蜀を平定し、翌年正月に謀反を企てて滅ぶ、その直前であった。

逸話

鍾毓と鍾会の幼時の問答は、よく「鍾兄弟の才知」としてまとめて語られるが、二つの場面は別の相手を前にしたものである。 汗を問われた一件は、『世説新語』言語篇が伝える。幼くして評判の高かった兄弟が召見され、緊張して汗をかいている鍾毓に「卿はなぜ汗をかいているのか」と問われた。鍾毓は答えた——「戦戦惶惶として、汗の出ること漿のごとし」。続いて汗をかいていない鍾会に同じ趣旨を問うと、鍾会はこう答えた——「戦戦栗栗として、汗、敢えて出でず」。畏れ多さを理由に汗が出ないと言い切る、見事な切り返しである。 ただし『世説新語』はこれを魏の文帝(曹丕)の召見としているが、鍾会の生年は二二四年ごろであり、文帝の在位中にこの年齢の対面が成り立つ余地はない。設定そのものには疑いがある。 父・鍾繇が問うたのは、もう一つの逸話である。兄弟が小さいころ、昼寝中の父の薬酒を盗んで飲んだ。鍾繇は目を覚ましていたが、寝たふりをして様子を見ていた。兄の鍾毓は拝礼してから飲み、弟の鍾会は拝礼せずに飲んだ。あとで理由を問われて、鍾毓は「酒は礼を成すものです。拝礼せぬわけにはまいりません」と答え、鍾会は「盗みはもとより礼ではありません。だから拝礼しなかったのです」と答えた。 礼の筋を通す兄と、前提そのものをひっくり返す弟。二人の資質の違いは、この答え方にそのまま表れている。そして長じたのちの兄は、弟のその才の向く先を正確に測っていた。 嘉平六年(254年)、廷尉となっていた鍾毓は、司馬師排除の謀に連座した夏侯玄を取り調べる立場に置かれた。自白を拒む夏侯玄から「卿は廷尉でありながら、情をもって恕すことをせず、かえって刑をもって迫るのは、どういうことか」と正色して責められた鍾毓は、この名士が節高くして屈しないと見た。そして裁きを終えねばならぬ立場から、夜のうちに自白書を代作したという。夏侯玄はそれを見て涙を流し、「わたしに何の罪があろうか」と言った。 同じ時期、その弟の鍾会は、落ちぶれた夏侯玄に馴れ馴れしく近づいて拒絶されている。兄は敬意から書類を代筆し、弟は過去の恨みから相手を侮った。同じ事件の同じ囚人に対して、兄弟はまったく違う態度を取ったことになる。 そして鍾毓が司馬昭に告げた言葉が、『三国志』に残っている。「会は術を挟んで保ちがたい。専任してはなりません」。才を否定したのではない。術策を内に抱えているから、全幅の権限を与えてはならぬ、という警告であった。 鍾毓は景元四年(263年)に死んだ。弟が蜀を平定する、その年である。そして翌年正月、鍾会は姜維と結んで謀反を企て、乱のなかで殺された。 このとき司馬昭は、鍾毓がかつて密かに告げた言葉を思い出した。そして特に鍾毓の子である鍾峻・鍾辿らを赦し、連座の例から外したのである。弟の謀反によって一族が誅されるところを、兄が生前に残した一言が救った。人物眼が、死後に子孫の命を守ったことになる。

評価

鍾毓は、名門・鍾氏に生まれ、実直な分別の人として魏に仕えた。派手な才気を誇る弟・鍾会と対照的に、堅実で安定した官人であった。 とりわけ、弟の危うさを早くから見抜いて主に密啓したところに、その人物眼の確かさがうかがえる。その一言は、鍾会の謀反のあと司馬昭に思い起こされ、連座を免れさせる形で鍾毓自身の子らを救うことになった。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、鍾会の兄として、また名臣・鍾繇の子として、その名が連なる。 幼少期の「汗をかく・かかない」の機知の逸話は、鍾兄弟の才を伝えるものとしてよく知られている。
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