ちんし

陳祗

字奉宗 生没年? – 258年 所属蜀

才幹で政を握るも、黄皓の台頭を許した蜀後期の重臣

能力値
統率 F
武力 F
知力 C
計略 D
政治 C
人望 E
関連年表
211年頃 汝南郡に生まれる。許靖の兄の外孫
— 幼くして孤児となり、許靖の家に引き取られて育つ
— 弱冠で名を知られ、文彩に秀で、図讖と多くの技芸に通じる
— 大将軍・費禕に異才と認められ、選曹郎に抜擢される
246年 董允の死後、その跡を襲って侍中となる
— 黄皓と互いに表裏をなし、黄皓が初めて政事に関与する
— 尚書令・鎮軍将軍となり、権勢は大将軍・姜維より重くなる
— 譙周と北伐の利害を論じ、譙周が退いて『仇国論』を著す
258年 四十八歳で没する。劉禅は涙を流し「忠侯」と諡す
258年 その死をもって、宦官・黄皓の専政が始まる

略歴

陳祗、字を奉宗といい、豫州汝南郡の人である。蜀の重臣・許靖の兄の外孫にあたる。 幼くして孤児となり、許靖の家に引き取られて育った。二十歳前後で世に名を知られ、とりわけ文彩に秀でた。加えて図讖——予言や吉凶を説く讖緯の書——を巧みに操り、多くの技芸に通じたと正史は特記している。 大将軍・費禕がこれを異才と見て、選曹郎に抜擢した。 延熙九年(246年)に董允が没すると、陳祗がその後を襲って侍中となる。やがて尚書令・鎮軍将軍を加えられ、朝政の中枢に座った。 ここで、蜀の宮廷に決定的な変化が起こる。前任の董允は、上に対しては顔色を正して主君を匡し、下に対しては宦官の黄皓をしばしば責めた。黄皓は董允を畏れて悪事に手を出せず、董允が生きている間、その位は黄門丞を超えることがなかった。ところが陳祗が侍中となると、彼は黄皓と互いに表裏をなして呼応し、黄皓はここで初めて政事に関与するようになったのである。 権力の構造も変わった。大将軍の姜維は官位では陳祗より上にあったが、常に兵を率いて外にあり、朝政に関わることが稀であった。陳祗は上では後主の意を承け、下では宦官と結んで深く信愛され、その権勢は姜維より重かったと史書は記す。 対外政策では北伐を支持した。たびたびの出兵で民が疲弊した時期、譙周は尚書令であった陳祗を相手に、その利害を論じ合っている。そして退いてその議論を書き記したものが、北伐批判の名高い一篇『仇国論』であった。 景耀元年(258年)、四十八歳で没した。後主・劉禅は痛惜して、語るたびに涙を流したという。詔を下して「忠侯」と諡し、子の陳粲に関内侯の爵を賜り、次子の陳裕を黄門侍郎に抜擢した。 そしてその死の年から、宦官・黄皓の専政が始まる。

逸話

蜀の末期がどこで傾いたのかを示す記述として、『三国志』にこれほど端的なものは少ない。 董允が侍中であったあいだ、宦官・黄皓の位は黄門丞を超えることがなかった。董允は上では顔色を正して主君を匡し、下では黄皓をしばしば面責した。黄皓は董允を畏れ、悪事に手を出す勇気を持たなかったのである。 そして陳祗が董允の後を襲うと、正史はこう続ける——陳祗は黄皓と互いに表裏をなし、黄皓はここで初めて政事に関与するようになった。 侍中が一人代わっただけで、一人の宦官の立場が変わった。董允が身をもって押さえつけていた蓋を、後任が外したのである。そしてその黄皓が、やがて姜維を退けようと図り、敵の侵攻を巫女の占いで片づけ、蜀を滅亡まで押し流していく。 陳祗自身が無能だったわけではない。むしろ逆である。費禕はその才を異器と見て抜擢し、後主は深く信愛した。正史は彼の権勢について「大将軍の姜維は官位では上にあったが、常に外にあって朝政に親しむことが稀であり、陳祗の権は姜維より重かった」と記す。蜀の末期、名目上の最高位は外征に出ており、実権は尚書令の手にあった。その構造を作ったのが陳祗であり、その構造に乗って伸びたのが黄皓であった。 彼が立っていた政策論争の位置も記しておきたい。度重なる出兵で民が疲弊したころ、譙周は尚書令の陳祗を相手に北伐の利害を論じ合い、退いてその議論を書き起こした。それが『仇国論』——蜀の国力では北伐は保たないと論じた、あの一篇である。つまり蜀最大の政策論争は、陳祗と譙周のあいだで交わされた。陳祗は一貫して出兵を支える側に立っていた。 死にあたっての劉禅の様子も、ほかの誰についても記されていないものである。景耀元年(258年)、四十八歳で陳祗が没すると、劉禅は痛惜して、その名を口にするたびに涙を流した。詔を下して「忠侯」と諡し、長子に関内侯の爵を与え、次子を黄門侍郎に抜擢している。劉禅がこれほど惜しんだ臣は、ほかにいない。 だが、その死がもたらしたものは重かった。陳祗は黄皓と組んではいたが、同時に黄皓の上に立つ存在でもあった。彼が死んで、黄皓の頭を押さえる者は誰もいなくなった。『三国志』後主伝は、まさにこの年から「宦人の黄皓、始めて政を専らにす」と記す。 有能な能吏が、国の禍根を育て、そして自分が死ぬことで最後の抑えまで外した。五年後、蜀漢は滅びる。評価が割れるのは、彼が無能だったからではなく、有能なまま間違えたからである。

評価

陳祗は、実務の才によって蜀後期の政を切り回した能吏であったが、宦官・黄皓を引き立てて、その専横への道を開いた点で、評価は大きく割れる。有能でありながら、国の禍根を育ててしまったという意味で、蜀の落日を語るうえで避けて通れない人物である。 董允が身をもって抑えた奸を、陳祗が解き放ってしまった――その対比は、一人の臣の選択が国の命運を左右することを、鋭く示している。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、蜀後期に政を握る重臣として名が現れる。 黄皓の台頭を許し、蜀の朝政が乱れていく背景を担う人物として位置づけられている。
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