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三十四章:司馬氏の台頭

諸葛亮が死去して5年、魏では幼少の曹芳が帝位に就き、曹爽と司馬懿で補佐することになり、時代は新しく変化していきました。

蜀では蒋エン、費イ、姜維らがまだ健在であり国力回復に向けて尽力しましたが、人材不足は否めず、またと諸葛亮のような人物が現れることは無かったのです。蜀の北伐はそれほど大変な物資を費やしていたのでしょう。

また呉においては、孫権が世継ぎとして大変期待していた孫登(そんとう)が早世してしまい、孫権は人が変わったかのように晩年は仁君とは呼べない行動を取ります。更に孫登が死去したことにより、跡継ぎ争いによる派閥が激しくなるのでした。

さて魏の曹爽(曹真の子)は大将軍として実験を握り、司馬懿と共に魏を盛りたてていくはずでした。曹爽の側近らは司馬懿を恐れ、政治軍事において曹爽一族で独占することを画策するのです。曹爽は幼帝曹芳に提案して、司馬懿を太傅(たいふ)に任命したのです。

太傅の位は最高職に当たるのですが、軍事的実権はなく、ただの名誉職であったのです。つまりこれで政治においても司馬懿を退けることができた訳です。その後、曹爽は兄弟らを最高職に就け、盤石な体制を整えたといえます。

司馬懿は曹爽が自分を恐れて太傅に就かせたことを瞬時に見抜き、その後は病として屋敷に引き籠ってしまうのです。

曹爽は実権を握るとすぐに蜀討伐軍を起しました。大軍を擁しながら蜀の漢中に攻め込みますが、王平らに撃退され、無残な敗退を演じてしまいます。無残な軍事的行動や政治の腐敗などが続き、中には曹爽排除論を持ち出すほどだったのです。

司馬懿の復権を願う噂が飛び交い、曹爽は司馬懿の様子を探るように側近の李勝に、司馬懿の屋敷へ向かわせました。司馬懿は曹爽が様子を伺っているとし、司馬懿はまさに芝居をするのです。まず、病床ということで髪をボサボサにして寝込み、李勝の質問に対してボケ老人を演じたのです。

李勝はこのままでは何の心配はないとして曹爽にこれを報告しました。曹爽は安心しきり、独占体制に疑問を持たなくなりました。そして翌年、曹爽は兄弟らを連れて賀正の狩りへ出かけた隙をついて、司馬懿は兵権を奪取して公宮を占拠するのです。

驚いた曹爽はすぐに引き返しますが、相手が司馬懿だけに手も出せず降伏し、政治の腐敗を招いた罪により曹爽一族は全員処刑されました。この功績により司馬懿は大将軍の座に就き、子の司馬師、司馬昭らも重職に就いたのです。

ここで司馬一族は台頭し、後に天下統一への足掛かりとなるのでした。

なお、この曹爽一族の処刑に反感して、夏侯覇(曹一族)が反乱しました。しかし共に戦線を渡り歩いた郭淮に敗れ、夏侯覇は蜀の姜維を頼ることになります。

蜀の姜維は、魏の政治的腐敗と司馬一族による政権を伺い、北伐を興そうと決意するのです。
諸葛亮死後、15年目のことでした。