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司馬炎、晋王となり晋建国

後漢伝


許貢 きょこう

姓名許貢
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生没年? - 200年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評孫策を項羽に例えたとされ、食客らによって名を残した人物
主な関連人物 袁術 厳白虎 
関連年表 193年 呉郡太守となる

略歴

許貢といい、字も出身地も不明である。

許貢は初め、呉郡都尉となった。その後、昇進して呉郡太守となった。

193年、袁術は曹操にしばしば破れたため、淮水を渡って九江に逃げ、揚州刺吏陳温を殺して州を支配し、寿春に治所を置いた。朝廷は劉繇を揚州刺史に任じて派遣したが、彼は袁術の勢いを恐れて歴陽に駐屯し、樊能・張英に命じて袁術の進出を拒せがせた。

袁術と劉繇の争いは一年余を経て、なお決着がつかなかった。

194年、袁術に身を寄せた孫策は、父の旧部下千余人を率いて劉繇を攻撃して忽ち破り、以後、江東の各地を席捲していった。

200年、許貢は献帝に上表して、「孫策の驍勇ぶりは、秦の末期に劉邦と天下を争った項籍(項羽)もかくやと思えます。宜しく高い恩籠を加えて京邑に召唤されますように。もし詔を受ければ彼は京邑に還らざるを得ませんが、このまま外に放置すると、必ず世の患いとなりましょう」と伝えた。

この上表は国家を思ってのことではなく、孫策の勢力が伸びれば自分の立場が危うくなると考えたからだが、彼の計画は使者が孫策の斥候に発見されて失敗した。孫策は許貢を呼び出して、この件を厳しく責めた。しかし、許貢は白を切って認めなかった。

怒った孫策はその場で部下に命じて絞殺させた。

許貢の死後、末子と食客は逃亡して長江の江辺に身を隠した。

200年、孫策は曹操と袁紹が官渡で相対している隙に、許を襲って献帝を自軍に迎え入れようと考えて、諸将をひそかに計画を企てていた。

その直前、狩りが好きな孫策は、馬を駆って鹿を追った。彼は駿馬に乗っていたため、男が立ち塞がった。

許貢の食客たちであった。不審に思った孫策が誰かと問うと、彼らは「私達は韓当の部下で、ここで鹿を射ております」と答えた。孫策は「韓当の部下ならみな見知っているが、汝らは知らぬ」と言いざま、いきなり一人を射殺した。残りの二人は恐れて孫策を射て、その頬に矢を中てた。

従騎が追いついて彼らを刺殺したが、孫策も重傷を負って、やがて後事を孫権に託して亡くなった。


見解

孫策に殺された許貢の仇討ちを三人の食客が果たしたことによって、『三国志』に名が遺された。

許貢が上表したことにより殺されたことについて、『通鑑考異』では、「許貢はまず朱治に迫られて郡を去って厳白虎に身を寄せたのだから、こんなことはあり得ない。思うに孫策が厳白虎を破った時に許貢は殺されたのであろう」と述べている。

「朱治に迫られて」とは、195年、孫策の将軍の朱治が銭唐から呉郡に進出しようとして、これを拒いだ許貢を由拳で大敗させた一戦のことで、この後、「許貢は逃れて厳白虎に身を寄せた」と朱治伝は記している。

裴松之によると、孫策が刺客に襲われた際、「孫策が韓当の部下を悉く知っているなどは偽りであろう。また、新しく部下となった者もいようし、それを顔を知らぬと言って、いきなり殺すなどは論外である」と注を加えている。

また、「許貢の食客は名もない小人であるが、恩愚に感じて義に臨んで生命を忘れ、そのまま勇気を揮って仇を討ったのは、古の烈志にも等しい行いである」と、称えている。


演義

『三国志演義』の第二十九回にも、この事件が記されている。