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後漢伝


蒋欽 公奕しょうきん こうえき

姓名蒋欽
公奕
生没年? - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評魏の張遼、蜀の関羽などの戦いに活躍した歴戦の勇士
主な関連人物 孫権 孫策 呂蒙 
関連年表 196年 江東平定
216年 濡須口の戦い
219年 荊州平定

略歴

蒋欽、字を公奕といい、九江郡の寿春の人である。子は蒋壱、蒋休がいる。

孫策が袁術のもとに身を寄せていたころ、蒋欽は孫策の配下に入って側仕えとして働いていた。孫策が江東へ渡ると、蒋欽は別部司馬に任ぜられ、兵を授けられた。孫策とともに各地を転戦して、三つの郡を平定し、さらに豫章郡の平定にも従事した。

葛陽県の尉の役目を授けられ、三つの県の長を歴任し、不服従民たちを討ち平らげ、やがて会稽郡の西部都尉に昇進した。会稽などの不服従民の呂合や秦狼らが叛旗をひるがえすと、蒋欽は兵を率いてこれを討伐し、呂合と秦狼とを捕虜として、五つの県を平定した。この功績によって討越中郎将の官に移り、経拘と昭陽を奉邑として与えられた。

賀斉がエイ県の反乱者たちの討伐にむかうと、蒋欽も一万の兵を指揮して、賀斉と力を合わせて征討を行なった。エイ県の反乱者たちが平定されると、合肥への遠征に参加した。

魏の部将の張遼が合肥の津の北で孫権に襲撃をかけて来きたときは、蒋欽は奮戦して孫権を守り切るという手柄を立てた。盪寇将軍に昇進し、濡須の督の任務にあてられた。のちに都に召し返され、右護軍の官を授かって、訴訟の処理を司った。

孫権が、あるとき、彼の家の座敷に通ったところ、母親は織りの粗い几帳と縹色の夜着を用いており、妻妾たちは麻布のスカートをはいていた。孫権は、彼が高い位にあっても倹約につとめていることに心を動かされ、すぐさま宮中の物品管理係りに命令を出し、母親のためにあや織りの夜着を作らせ、帳を取り換え、妻妾たちの衣服もすべてあや織りや刺繍のあるものに換えさせた。

蒋欽が宜城に軍を置いていたときのこと、豫章の不服従民を討伐したことがあったが、その間に蕪湖県の令の徐盛が、蒋欽の駐屯地で留守を守っていた役人を捕え、上表して斬刑に処そうとした。孫権は、蒋欽が遠征に出ているということで、それを許可しなかった。徐盛は、このことがあってから、蒋欽のしかえしを受けるのではないかと考えて、疑心暗鬼となった。

曹操が濡須へ軍を進めてくると、蒋欽は呂蒙とともに諸軍団の総指揮にあたった。徐盛は、蒋欽が何かのことにかこつけて自分をひどい目に会わせるだろうと、いつもびくびくしていた。しかし、蒋欽は、しばしば徐盛の優れたところを賞賛した。このようなことから、徐盛は蒋欽の徳に心服し、人々の風評も蒋欽をほめたたえた。

孫権が関羽を討伐したとき、蒋欽は、水軍を指揮して漢水の流域に軍を進めた。その帰還の途上、蒋欽は病気のために死去した。享年不明。

孫権は、喪服をつけ蒋欽の死を悼んで哭礼を行なった。


評価

聡明ではあったが教養に乏しかったため、呂蒙と共に孫権から勉学に励むように諭された。ここで必死に書物を読んで勉強し、呂蒙と並んで、孫権に「その行いは人々の模範となり、国士である」と賛嘆された。

孫権が蒋欽に尋ねて「徐盛はかつてあなたのことを挙げつらった上言をしたのであるのに、あなたはいま徐盛を推挙される。なぜか。」蒋欽は答えて「臣は、公の推挙には私怨をまじえぬものと聞いております。徐盛は、まごころをもって勤めに励んでおり、大胆で見通しがきき、実務能力も備えていて、一万の兵を指揮するにふさわしい人物です。いま中国統一という大事もまだ未完成であって、臣には国家のために才能ある人物を捜し求める義務がございます。どうして私怨にひかれて有能な人材をかくれたままにしておいたりいたしましょう。」孫権はこの言葉を喜んだ。


演義

『三国志演義』では、元々は周泰とともに水賊をしていたが、孫堅の遺児が挙兵したことを聞きつけて孫策の軍に参加したことになっている。孫策の江東征服戦に参加し活躍する。赤壁の戦いやその後の南郡の戦いにも参加したが、南郡では曹仁に大敗したため、周瑜に斬られそうになっている。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪問したときは、張昭の薦めで孫夫人と逃走した劉備の追撃の任命を周泰とともに任され、その際従わないときは夫婦ともども斬ってもよいという命令も受けている。関羽討伐戦に参加したのを最後に、物語から姿を消し、その死の描写や報告もない。