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後漢伝


馮煕 子柔ふうき しじゅう

姓名馮煕
子柔
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評使者として魏に赴き、曹丕に屈せず、忠節を貫いた人物
主な関連人物 孫権 
関連年表 209年 東曹掾となる
223年 中大夫となる

略歴

馮煕、字を子柔といい、潁川郡の人である。先祖は前漢の功臣、馮異である。

209年、孫権が車騎将軍の在官の間、馮煕は東曹掾として官吏の登用の任にあたった。

223年、永安宮において劉備が亡くなると、孫権は馮煕を立信都尉に昇進し、公式の弔問の使者として派遣し、帰国後は中大夫となった。

224年、馮煕は使者として魏に赴いた。曹丕は、「呉王がもしも永く友好関係を保ちたいのであれば、精兵を江関に向かわせ、巴蜀に軍を押し立てるべきである。それなのに、蜀に再び修好の使者を送ったと聞いた。必ずや企むところがあるのだろう」と問うた。馮煕は、「臣が聞き及んでおりますのは、正方への使者は答礼のためのものに過ぎず、それに蜀の弱点をうかがっただけで、謀議などありませんでした」と答えた。

曹丕はまた、「聞けば呉国では連年旱魃があり、有能な人材も少なくなったそうだ。大夫の明察ではこれをどうみるか」馮煕は、「呉王は生まれつき聡明で、人才の任用に長けておられ、政治や軍役についても彼らに諮問され、賓客や他国の者をよく養い、賢人や士を親愛されております。また賞罰は公正で、臣下は恩徳になついてひたすら忠義を果たそうとしております。帯甲百万、穀物は山のごとく積まれ、稲田と沃野が広がり、人が飢えに苦しむ年はございません。これこそ、いわゆる金城湯池、富強の国と申せます。臣がみるところ、両国の軽量はどちらも決められません。」とはっきり言った。

曹丕はこの返答を喜ばず、重用する陳羣が馮煕と同じ出身だったので、彼に命じて魏に付くように誘いかけ、厚い恩賞を約束して口説き落とそうとした。

しかし馮煕に節をまげる気がなく、そこで曹丕は彼を呉に還さなかった。後に再び召還したが、魏に付けと迫られこれを拒めば、自分の命が危ういのをもとより、君命を辱めることになると、都に着く前に馮煕は刃で自害した。これに気づいた御者がすぐに手当てをしたため、彼は死ねなかった。

馮煕はそのまま魏に抑留され、そのまま亡くなった。享年不明。


評価

孫権は、馮煕が抑留され一度は自害しようとしたことを知ると、涙を流して「匈奴に捕らえられてもついに節を屈しなかった蘇武と何ら異ならない」と言った。