215年
がっぴのたたかい

合肥の戦い

張遼が八百騎で孫権の大軍を破り、逍遥津で孫権を追い詰めた戦い。

時期
215年(建安20年)
場所
逍遥津(安徽省合肥市(逍遥津公園))
結果
魏の勝利(張遼が孫権の大軍を撃退)
兵力
魏 約7千(決死隊800)/呉 十万と号す
立脚点
正史
別名
逍遥津の戦い

概説

215年、曹操が漢中へ遠征した隙をつき、孫権が十万と号する大軍で魏の合肥に迫った戦い。城を守る張遼はわずか八百の決死隊で逆襲し、退却する孫権を逍遥津の橋際まで追い詰めて、あわや討ち取る勢いを見せた。寡兵で大軍を破った張遼の武名は江東を震わせ、「遼来来」の言葉で泣く子も黙ったと伝わる。

背景

合肥は、魏にとって呉の北上を食い止める最前線の要塞であった。曹操が主力を率いて漢中の張魯を攻める間、合肥を守るのは張遼・楽進・李典ら、わずかな守兵にすぎない。孫権はこの好機を逃さず、みずから大軍を率いて合肥へ攻め寄せた。

経過

曹操が残した密書の計に従い、張遼は夜のうちに決死の八百人を募った。翌朝、張遼はみずから先頭に立って呉軍の陣へ突入し、孫権の本陣近くまで斬り込んで、呉の将兵を数多く討ち取る。この奇襲で呉軍の士気は大きくくじけた。十余日の攻囲ののち、孫権はついに撤退を始める。張遼はすかさず追撃し、逍遥津の北で殿軍となった孫権の一隊を包囲した。橋の板はすでに落とされていたが、孫権は側近に励まされて馬に鞭打ち、跳んで橋を越え、辛くも虎口を脱したという。

結末と影響

甘寧・凌統・呂蒙らが身を挺して孫権を守り、凌統は多くの部下を失いながら主を逃がした。呉は大軍を擁しながら合肥を抜けず、かえって手痛い打撃を被る。以後、張遼は呉にとって恐怖の的となり、その名を聞くだけで呉兵が震え上がったと伝わる。合肥は、呉の北進を阻み続ける魏の南辺の楯であり続けた。

逸話

逍遥津での大敗ののち、呉では「遼来来(張遼が来るぞ)」と言えば、泣いている子どもも恐れて泣きやんだと伝わる。八百の兵で十万の軍を打ち破った張遼の武勇は、江東の人々の心に深く刻まれ、その名は勇将の代名詞として語り継がれた。

本文に登場する武将 (言及)

陸遜
りくそん
陸遜
183年 – 245年
伯言  昭侯

関羽討伐や夷陵の戦いで勝利し、呉国前期を支えた重鎮

しゅい
朱異
? – 257年
季文 

父朱桓に劣らない名将であり、孫綝によって非業の死を遂げた人物

ちょうこう
張紘
生没年不詳
子綱 

計略と外交で貢献し、孫権に遷都するよう進言した政治家

ちんぶ
陳武
? – 215年
子烈 

孫権に寵愛受け、合肥の戦いで戦死した武将

きょゆう
許攸
? – 204年
子遠 

曹操に馴れ馴れしい態度が仇となって処刑された人物

しゅぜん
朱然
182年 – 249年
義封 

主に蜀魏と荊州を巡って争い守った名将

はんしょう
潘璋
? – 234年
文珪 

性格で粗暴で、晩年は派手な生活をしていた功労者

張昭
ちょうしょう
張昭
156年 – 236年
子布  文侯

内事は張昭、外事は周瑜で国政を支えた政治家

そうけん
宋謙
生没年不詳

重要な戦場で活躍しながら、正史に伝がない武人

しょうきん
蒋欽
? – 219年
公奕 

魏の張遼、蜀の関羽などの戦いに活躍した歴戦の勇士

ていほう
丁奉
? – 271年
承淵 

呉末期を支えた中心人物にして、魏と対峙した勇将

諸葛恪
しょかつかく
諸葛恪
203年 – 253年
元遜 

若くして才能に溺れ、軍事の失敗を問われて殺害された人物

しょうさい
蒋済
? – 249年
子通  景侯

逸材を見抜く才能を持ち、参謀として活躍した酒癖の悪い人物

がさい
賀斉
? – 227年
公苗 

山越や不服従民を討伐し、魏との戦いで活躍した将軍

そうえい
曹叡
204年 – 239年
元仲  明皇帝

秦の始皇帝、漢の孝武帝を凌ぎ評される皇帝

りゅうふく
劉馥
? – 208年
元穎 

合肥に州庁を設置し、仁政を施して強固に安定させた人物

しゅせき
朱績
? – 270年
公緒 

数々の功績を挙げて、後年の呉を支えた名将の一人

こくり
谷利
生没年不詳

孫権の側近として忠義に厚く、二度も危機を救った人物