219年
はんじょうのたたかい

樊城の戦い

関羽が「水淹七軍」で威名を轟かせるも、呉の急襲で荊州を失い敗死した戦い。

時期
219年(建安24年)
場所
樊城(湖北省襄陽市樊城区)
結果
魏が防衛、呉の背後急襲で関羽が敗死
兵力
諸説あり
立脚点
正史

概説

219年、荊州の関羽が北上して魏の樊城を包囲し、大水を利して魏の援軍を沈める「水淹七軍」で威名を天下に轟かせた戦い。しかしその隙をつき、呉の呂蒙が荊州を電撃的に奪ったため、関羽は退路を断たれて敗走、ついに捕らえられて命を落とした。魏・蜀・呉の思惑が交錯した、関羽 最後の戦いである。

背景

漢中を得て漢中王となった劉備の勢威は絶頂にあった。これに呼応して、荊州を守る関羽は北上し、曹操方の重鎮 曹仁が守る樊城を包囲する。魏は于禁・龐悳に七軍を率いさせて救援に向かわせた。一方、荊州を狙う呉は、関羽が北へ主力を注いだ隙をうかがっていた。

経過

折からの長雨で漢水が氾濫すると、関羽は水軍を操ってこれを活かし、低地に布陣していた于禁の七軍を水没させた。于禁は降伏し、龐悳は最後まで戦って捕らえられ、屈せず斬られた。関羽の威名は「華夏を震わす」ほどとなり、曹操は一時 遷都さえ考えたという。しかし魏は徐晃の援軍を送って樊城の囲みを緩めさせ、同時に呉の呂蒙が白衣の兵を商人に装わせて長江をさかのぼり、手薄な江陵を無血で奪取する。後方の本拠を失った関羽の軍は動揺し、離散した。

結末と影響

帰る城を失った関羽は麦城へ追い詰められ、益州を目指して脱出する途上、臨沮で呉の伏兵に捕らえられて子の関平とともに斬られた。荊州は完全に呉の手に帰し、蜀は要地と名将を一度に失う。この関羽の死と荊州の喪失が、やがて劉備の呉への東征(夷陵の戦い)を招き、蜀漢の運命を大きく揺るがすことになる。

演義

『三国志演義』では、樊城を攻める関羽が毒矢を受け、名医 華佗が骨を削って毒を除く「刮骨療毒」の手術を、関羽が碁を打ちながら平然と受ける場面が描かれる。豪胆な関羽の人物像を象徴するこの逸話は、水淹七軍の武功とともに、英雄の最後の輝きをいっそう際立たせている。