263年
しょくせいばつ

蜀征伐

魏が蜀を滅ぼした戦い。姜維が剣閣を守る隙に、鄧艾が陰平を越えて成都に迫った。

時期
263年(景元4年)
場所
剣閣(四川省広元市剣閣県)
結果
魏の勝利(蜀漢滅亡)
兵力
魏 十数万/蜀 諸説あり
立脚点
正史
別名
蜀漢滅亡

概説

263年、魏が大軍を発して蜀漢を滅ぼした戦い。鍾会の本軍が姜維を剣閣に食い止める間、別働の鄧艾が人跡まれな陰平の険を越えて蜀の背後へ抜け、綿竹で諸葛瞻を破って成都に迫った。後主 劉禅が降伏し、劉備・諸葛亮の築いた蜀漢は建国からおよそ四十年で滅んだ。

背景

諸葛亮の死後、蜀は姜維がその志を継いで北伐を重ねたが、たび重なる出兵は国力を消耗させていた。魏の実権を握る司馬昭は、この機を逃さず蜀征伐を決断。鍾会・鄧艾・諸葛緒に十数万の大軍を授けて、三方から蜀へ攻め込ませた。

経過

姜維は諸軍をまとめて天険の剣閣に拠り、鍾会の大軍を正面で食い止めた。剣閣は「一夫関に当たれば万夫も開くなし」と称される要害で、鍾会は攻めあぐね、兵糧に窮して撤退すら考えたという。ところが鄧艾は、人の通わぬ陰平の山道を七百里、断崖では自ら毛氈にくるまって転がり落ちながら踏破し、蜀の腹背へ抜けた。江油の守将を降した鄧艾は、綿竹で諸葛亮の子 諸葛瞻・孫 諸葛尚の父子を破る。諸葛瞻らは降伏を拒んで討ち死にし、成都への道が開かれた。

結末と影響

鄧艾が成都に迫ると、後主 劉禅は戦わずして降伏し、蜀漢は滅亡した。剣閣で健在だった姜維は、なお鍾会を唆して魏に叛かせ、蜀の再興を図ったが、事は露見して姜維・鍾会ともに殺される。三国の一角がここに崩れ、天下は統一へと大きく傾いた。二年後、魏もまた司馬氏に取って代わられ、晋の世が始まる。

逸話

降伏した劉禅は洛陽へ移され、司馬昭の宴で蜀の音曲を見せられても平然と楽しんでいた。「蜀が恋しくないか」と問われて「ここが楽しく、蜀は思い出しません(楽しんで蜀を思わず)」と答えたという「楽不思蜀」の故事は、亡国の主の心情としてさまざまに評されてきた。